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思い出が詰まった部屋を出よう

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『思い出が詰まった部屋』

古い友人である高村は新聞記者になって十一年になる。一流の大学を出ながら、いまだに平の記者である。その高村と久々に飲んだ。週末ということもあって、つい時間が経つのも忘れて、飲み続けた。その結果、終電に乗れなくなり、彼の部屋に泊めてもらうことになった。

高村のマンションは中目黒の緩やかな坂の中腹にある。五階の部屋で眺めがいい。だが、部屋の中は実に汚い。乱雑に物が置かれ、あちこちに埃がたまっている。
「ひどい部屋だろ?」と高村は言った。
「確かにひどい部屋だ。掃除はしないのか?」
「たまにするさ。月に一回くらいは」
「少ないな、一週間に一回はやった方がいいぞ。それに捨てるものはどんどん捨てた方がいいぞ。いつかごみ屋敷なってしまう」
「なかなか捨てられない」
「ごみ屋敷の住人はみんなそう言うらしい」

「久しぶりじゃないか、今夜はとことん飲もう」と言って、高村はグラスとウィスキーのボトルを持ってきて、ウィスキーを注いだ。
「今夜は飲まずにはいられないんだ」と高村は言った。
あたりを見回すと、ソファの近くに机がある。机の片隅にルドン作『花の中のオフィーリア』と妻の写真が飾られている。
「あれは奥さんの写真だろ?」
彼の妻は、知的でとても魅力的な女性だったが、生まれつき体が弱かった。絵画に造詣が深かく、特に好きだったのがルドンであった。数年前に亡くなった。結婚し十年目のことである。
「そうだ」
「忘れられないのか?」という言葉が喉まで出かかった。
「滑稽な話さ。いまだに忘れられない。多分、ずっと思い出を引き摺って生きる。馬鹿げていると思うだろ?」
「結婚していない俺にそんなことを聞くなよ、分かるわけがないだろ?」
「結婚はしないのか?」
「分からない。でも、今のままなら、しないだろ」
「もったいない」
「お前が言うなよ」
顔を見合わせて笑った。

しばらくして、高村が呟くように語り始めた。
「あいつは雨が降る中を傘もささずに歩いてしまった。それはルドンの展覧会を観るためだった。そして、その夜、ルドンの画集を見せてルドンの絵の魅力を熱っぽく語ったよ。しばらくして、体調が悪いと言った。体温を測ると高かった。翌日になっても、治らなかったので、病院に行った。すると、医者から“すぐに入院しろ”と言われた。もともと体が弱かった。入院して、数か月後のことだ。その日は夏の燃えるような日ざしがかんかんと照りつけていた。ひどい咳を数時間した後、あっという間に死んでしまった。医者は心不全だと言ったかな。ずっと死を受け入れられなかった。あるとき、気づいた。受け入れようと、受け入れまいと、時間は過ぎていく。当たり前のことだが、今までずっと知らなかったような気がする。誰もが、未来へと押し流されていくんだ。ときどき、死にたくなるんだ。そんなとき、妻の写真を見る。すると、“死なないで”と囁くんだ。あいつは体が弱かった分、恐ろしく生に執着していた。生きているとき、“私が早く死んでも、私の分まで長生きして”とよく言っていた。俺にとって、生きることは義務だ。でも、ときどき、それを重荷に感じる」
何も言えなかった。
そっと見ると、いつもの陽気な顔と違って、実に神妙な顔をしている。それに、ここではない、どこか別の世界を真剣に見ている。
「生きることは義務か。何だか切ない話だな。好き勝手なことを言っていいか?」と聞くと、高村は静かにうなずいた。
「この思い出が詰まった部屋を出たら、どうだ?」
「ここを出てどこへ行けばいい?」
「どこでもいいさ。海が見える所でも、どこでも」
「ここを離れたら、たぶん、生きていけないよ。妻との思い出が、この俺を現実に留めている。それが消えたら、留めていたものが消え、まるで風船のように宙に浮いてしまう。そうなったら、死ぬよ」と高村は自嘲気味に笑った。
「新たな出会いを探せば?」
「そんな気力はなくなったよ。この部屋を見れば分かるだろ」
 高村は何とも言えない寂しい笑みを浮かべた。