インタルジア -受胎告知―
pie.9 6.トラウマ
長い砂利の坂道を父親と上る。父親は自転車を引いている。彼は父と自転車の荷台とを見つめながら一心不乱に歩いている。
左右から迫る雑木の枝葉が、彼を狙って露を落としてくる。転居の記憶は飼い犬の出奔と共に、ほのかな苔の匂に湿った坂道であった。
引っ越しの為の荷造りも、新居での荷解きも知らない所で行われた。家に入って窓とカーテンを閉めテレビを付けると、そこは引っ越し前と何も変わらない彼の家だった。
だが夕方、散歩に出掛けた彼は方向を失った。
心細さに夕暮れが迫り、用水路を流れる水音ばかりが大きくなっていった。知らない道ばかりが現れた。恐ろしい町だった。点滅する街灯から垂れ下がる電線や、目に見えない穴ぼこなどに打ちのめされながらも、生け垣の間から漏れるオレンジの光を見つけた。
彼は泣いた。しかしその声は新しい飼い犬の吠え声に掻き消された。
嗚咽しながらようやく靴を脱いだ彼の前に母親が現れた。彼は全てを忘れて母親の腹に飛びつこうとしたが、
「足を洗いなさい。ご飯にするわよ」
という声を浴びせかけられた。用水路から迸る冷水のようだった。
薄暗い玄関先で、彼は先程までの心細さが、広大な空間の直中に置き去りにされているのを見た。
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※岸田氏の話は、時々非常に鮮明だ。これが彼の話そのままだとしたら、彼の記憶力はもとより、岸田氏の記憶力も驚くべきものだ。他人の記憶をそっくり引き継いだような岸田氏の語り口は、この質素な部屋に自在な時空を召還する。しかし、彼はただの子供としか思えない。何故岸田氏は、こんな事を覚えているのだろう。これは岸田氏の記憶なのかもしれない。しかし、彼にもこんな幼児体験があるという事を知った岸田氏の喜びを、推察する要素ともなる。
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作品名:インタルジア -受胎告知― 作家名:みやこたまち