~それから~(湊人・高木編)
午後九時に演奏を終了すると、健太と晴乃が興奮した様子で湊人にかけよってきた。
「湊人、すごいやんかあ! なんでピアノ弾けること、高校では隠してたんや!」
「なんでって……知ってるの、おまえだけで十分だったし」
「倉泉は知ってたみたいやで?」
「オレもそのこと、最近知った。おかげで祝賀会に出なきゃいけなくなったけど」
湊人が苦笑いをすると、健太は「期待してるでー」と強く肩を叩いてきた。
「そのかわりに、悠里に英語教えてもらうんやろ?」
晴乃がにやにやとしながら湊人の肩をつついてくる。そこへすかさず健太が割りこんでくる。
「そしたら俺も混ぜてもらおかなー。倉泉の教え方、わかりやすいんよな」
「おまえはもう受験終わったんだろ」
「まあなー。あとは国公立の結果待つだけやし、滑り止めもあるし……」
健太の声のトーンが下がっていく。ふと晴乃を見ると、指を組んだままじっとうつむいていた。
健太と晴乃は滑り止め用に同じ私立大学を受けたが、ボーダーラインすれすれだった文系の健太が合格し、余裕の合格を見込まれていた理系の晴乃が運悪く不合格になってしまった。
センター試験でつまづいた健太はその後、泣く泣く地方大学を受験し、晴乃は大本命の国立大学を受験した。合否はまだ出ていないが、その前後から晴乃とは顔を合わせていない、と悠里から聞いている。
「まっ、滑り止めなんかなくても、本命に受かれば問題ないしな!」
不穏な空気を吹き飛ばすように、健太は明るい声で言った。しかし墓穴を掘ってしまったらしく、晴乃はますます眉間に皺をよせた。
「健ちんに私の気持ちなんてわからんのや」
「そう言わんとってや。今日だって気晴らしに湊人のピアノ聞きにきたんやろ? 倉泉もおまえと連絡がとれんて、心配してたで」
「別に避けてるわけやない。タイミングが合わんかっただけや」
「そや、明日も朝から剣道場いくし、ルノも一緒に行こうや。湊人もどうや?」
必死に場を取り繕おうとする健太の肩を持ってやろうかと湊人は思ったが、晴乃はぎゅっとくちびるを結んで背中をむけた。
「私は行かん」
「なんでや? 明日はなんも予定ないってさっきゆうてたやん。倉泉だってきっとおまえが来たら喜ぶと思うし……」
健太が晴乃の肩をつかんで言うと、彼女はふりむくなり大きな声を上げた。
「健ちんのアホ! 悠里と好きなだけ剣道やってきたらええやろ!」
「おまえのこと心配してゆうたってんのに、アホとはなんや!」
「アホやからアホゆうてるんや! 心配したるなんて余計なお世話や!」
高校生二人が始めた痴話げんかに、店内がざわつく。まずいと思いながらも対処法が思いつかず湊人がうろたえていると、晴乃の父が彼女の背中を押した。
「わがまま娘ですまんなあ、健太くん。とりあえず家に連れて帰るわ。君は電車で帰れるか?」
「あ……はい。スミマセン、せっかく連れてきてもらったのに、ケンカしてしもうて」
「ええんや。これからもよろしゅう頼むわ」
怒りが収まらないのか晴乃はまだ噛みついてきそうな顔をしていたが、父親に体を押されてレジカウンターに向かった。オーナーが挨拶に出向くと、ようやく状況を把握したのか申し訳なさそうに頭を下げていた。
「俺……なんかあかんこと言うた? 滑り止めのことか?」
晴乃のうしろ姿を見送ったあと、健太はぽつりとつぶやいた。まじめで剣道バカなこの友人は、やはり女心なんて微塵もわからないらしい。
「ほんとに気づいてないのか?」
「……頼む! 教えてくれ!」
健太にすがりつかれて、湊人は肩を落とした。できれば自分の口から言いたくはないけれど、教えなければ彼はまた同じ失敗を繰り返すのだろう。
「おまえ、倉泉って言いすぎ」
「……はぁ? それがなんであかんのや。ルノの友達やろ?」
「だからさ、おまえが倉泉の話ばっかりするから、牧が腹立ててるんじゃないかってことだよ」
「なんで倉泉の話して、ルノが腹立てるんや」
「それ、本気で言ってんの?」
「俺はいつだって真面目や」
黒い瞳に力をこめながら、健太はそう言い切る。湊人はため息をついて、ピアノ椅子に着席した。鍵盤に指をそろえて、Gのコードを鳴らす。
「それがわからないんじゃ、おまえ本物のアホだな」
「湊人までアホや言うなやぁ!」
スーツの襟首を引っぱってくる健太を無視して、湊人はピアノを弾き始めた。G、Bm、C、Bmとコード進行は続き、ジャズの三拍子でメロディは展開していく。この曲を弾くたび彼女の笑顔が思い浮かぶ、ビル・エバンスの甘いナンバー――
「……どっかで聞いたことある曲やな」
「ディズニーの白雪姫で流れる『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』だよ。ジャズの巨匠がこぞって演奏してる、スタンダードナンバーなんだ。タイトル、和訳してみろよ」
ピアノを弾き続けながら湊人が問いかけると、健太はしばらく首をひねったあと、言った。
「……いつの日か王子様がくるでしょう、とか?」
「そう。おまえは牧の王子様なんだよ」
「俺がぁ?」
健太が素っ頓狂な声を上げる。湊人は苦笑しながら、テーマを弾き続ける。
「アホな王子様がうっかり他の女に告白した挙句、いまだにその女の話ばっかりするから、姫は今でも怒ってるんだよ」
「アホアホ言うな!」
「事実なんだからしょうがないだろ」
1コーラス目が終わり、湊人は勝手にソロを弾き始めた。この曲は父の録音テープにも残されている。孤独に蝕まれないよう、一音も漏らさないよう聞き続けてきた曲だ。ざわついていた感情も、ピアノと向き合っていると自然に落ち着いてくる。
するとスティックブラシがスネアドラムをこする音が聞こえ始めた。ステージに視線を送ると、高木がそっとドラムを叩いている。そのすぐそばに、葉月と真夜が立っている。
高木が入ってしばらくするとテンポが上がり、軽やかな三拍子へと変化する。森の小屋の中で歌う白雪姫が見える。彼女はずっと、いつ来るかわからない王子様を待っている――
気づくとオーナーもベースを弾き始めていた。即席のピアノトリオに、残っていた観客たちが声を上げる。高木のそばに立つ葉月の口元が動いている。バンドを組んでいた時はヴォーカルだったというから、歌っているのかもしれないと思った。
今にも踊りだしそうな様子でテンポを取る彼女の姿を、高木がやわらかい表情で見守る。高木の想いが彼女に届けばいいのにと願うのは、自分勝手でわがままなことなのだろうか、と湊人は考える。だってあんなほどけた表情をする高木を見るのは初めてで――
湊人は祈るような気持ちでピアノを弾く。誰かを好きになって、それだけで満足できればよかったのに、相手の心に自分が住んでいないとわかった途端、どうして気持ちはこんなに落ち込むのだろう。あっさり諦めればすむことなのに、それすらできなくて、行き場のない感情を誰もが持てあましている。
作品名:~それから~(湊人・高木編) 作家名:わたなべめぐみ