睡蓮の書 三、月の章
キレスが何気なく加えたその情報は、本人の自覚はないようだが、かなり重要なものだった。ケオルは口に手を当て、思考をめぐらせる。
「……三人か……厄介だな」
知らずに動けば大変な失敗を犯していたかもしれない。その意味で、キレスの情報はなくてはならないものだった。――しかしその情報が、突破口を示したわけではなかった。それどころか、この状況がどれほど困難なものかを、よりはっきりと知らしめるものだったのだ。
「厄介? 何が?」
「……人柱」
「は?」
「四面体だろ。その頂点のひとつが上部に、底部にもう三つ。この、三点に、それぞれ人があるわけだな」
「……だから、なんだよ」
「箱を壊すには、最低でもひとり、倒さなきゃならないってことだな」
「……」
ケオルが深刻そうに言う。が、キレスはきょとんと瞬いた。敵があるのだから、倒すのは当たり前だ。何が言いたいのか分からない。
「倒さずには出れないって事だよ」
その様子を汲んで、ケオルが簡潔に説明した。が、
「倒せばいいじゃん」
「どうやって?」
「俺の――」力で、と言いかけて、キレスは今しがたケオルに言われたことを思い出し、言葉を飲み込む。「……じゃなくて、お前が力使えよ、たまには!」
「……」
ケオルは黙った。キレスは、当然それしかないだろうと考えたし、ケオルだって当然それくらいは気付いてるだろう、と思っていた。だからこそ、この沈黙の意味がつかめず、首をかしげる。
なにか大掛かりな術でも構想しているのだろうかと思った、そのとき、
「この空間内で、俺に使える有益な術は、……傷を治すことくらいだろうな」
ケオルがやっと答えたのは、弱気な内容だった。
「はあ? 何言ってんだよ、そんなこと言ってる場合じゃないだろ?」
「……キレス。この空間の文字術で定義されている『条件』、それは……、四属すべての精霊に対する空間内からの影響を、封じるものだ」
セシャトは北の知属の長であり、その名を冠するほどの実力者である。それはこの空間につけられた条件を見ればそれだけで確かだ。
「箱」として閉じた四面体、その四つの面それぞれには、同じ条件が書かれているだろう。――すなわち、火・水・風・地それぞれの精霊が、この「箱」の内側からの呼びかけに応じることのないように。箱の中で示される、精霊に対する影響のすべてが、かき消されるようにと。
そうすることによって、空間内に閉じた敵がどの属性であれ、少なくとも、精霊を呼び出し力を用いることは封じられる。もし相手が高位の神であれば、それは時間稼ぎにしかならないかもしれない。高位神は精霊を生むことなく、強大な力を行使することが出来るのだ。それでもこの条件ゆえに、北の知神が呼び寄せた精霊に対しては、無効化することは難しくなるだろう。……下位のものであれば、より勝算が高くなる。
どちらにせよ、この空間に閉じている以上、相手の動きは制限される。知属のような力の貧弱なものでも、大きなダメージを与えられ、うまくいけば相手を死に至らしめることも可能だろう。
「知ってると思うけど、知属の攻撃的な力は、ほとんどが、精霊の力を借る事による」
条件付けがどのような形でなされているのか。それを、ケオルは始めの風の攻撃のときに確認していた。空間が成立した瞬間に見えた雷光が、神聖文字の連なりであったことを、ケオルはすぐに察したのだ。そうして、敵の攻撃としての風を――当然、それがこの文字術の空間を構築した知属神によって唱えられた呪文によるものと考えたので――収めるために、対抗する呪文を唱えてみた。しかし結果、壁に雷光を――つまりその行為を封じるための条件文を記した文字の存在を確認したのみで、収める術は効をなさなかったのだった。
「加えて、精霊に因らない他の僅かな術も、知属の、しかも最高位となる『セシャト』に、効く様なもんじゃない」
最も悪いことに、四属すべての神の「力を殺ぐ」ために構築されたこの文字術の条件が、知属に対しては最強の術封じとして働いてしまう。
そして、これは完全に偶然に違いないが――というのは、ケオル自身も今まで知ることなく、北がそれを知っていた可能性はもっと低いだろうから――、文字術で空間全体を閉じてしまったことにより、キレスの、月属の力さえも、封じてしまっているということだった。
「……んだよ……」
手も足も出ない、ということ。それをやっと、漠然とではあるが理解したキレスは、さっと血の気が引くのを感じた。
「どうすん、だよ……」
そして半ば放心したように、つぶやく。
ぎぎぎ、と不気味な音を立て、結界がきしむ。いつの間にか透明な結界を飲み込んだ水流が、激しい渦となって結界を削り始めていた。
ケオルは焦りに唇を噛む。袋の鼠も同然――兄の言葉が、頭をよぎった。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき