睡蓮の書 三、月の章
そこに鏡があるかのように、そっくり同じ顔をして。互いに、言葉なく、ただ相手を捉え、その存在を確かにするように。
そうして、交わる目と目。
――そうだ。ほんとうは、はじめから、ひとりだった。
けれどまるで、ふたりが一つのようだったから。同じ時間、同じ場所、そして同じ感情さえ、共有していたから。境がどこか曖昧で、分かちがたく感じていた。いや、同じであると信じていた。別の存在であるという意識なしに、そこにあって当然のもの――少なくとも、自分にとってはそうだった。
だからこそ、はじめにあの場を離れたケオルのその行為に、ひどく残酷な仕打ちを受けたように、裏切られたように感じていた。
体の一部を切り取られるような衝撃。奪い去られてしまったという思い。それはあの言葉よりも早くに、はっきりと感じられた。
失ったもの――それは、音。そこに間違いなくあると示す音、存在を支える確かさ。遠くのかすかな物音から、近づき触れたときの拍動、どんな音でも、存在を知ることができた。
言葉などなくても、その目に捉えることがなくても、その音だけがあればよかった。そして自分の存在は、それと切り離せないものであると、そう考えていた。だから――、それを失うことに、ひどく戸惑いを覚えたのだった。
キレスの中で戸惑いはいつでも、消え去ることも、小さくなることもなく、その上に次から次へと積み重なっていくものだった。母の反応、兄弟喧嘩、小さなすれ違い、勘違い……ほんの取るに足らないことでも、そのままの形で残り続ける。
このとき、大きな戸惑いの塊が、積み上げた細長い塔の頂に飾られ、塔はひどく不安定に、ぐらり、ぐらりと揺れていただろう。
そうして、あの部屋で、母の前で、無意識に現れた「力」。それに過剰に反応し、押しとどめようと全力で圧する母。
……限界だった。
辛うじて立たせていたものがガラガラと崩れ去り、幼い理性のたがは易々と取り払われ、感情が具現化される。
力尽くで止めようとする母に、キレスは全力で抵抗した。これまでのすべてを、積み重なった何もかもを、押し返そうとするように。
そうして手放した意識が戻ったころ、自身の引き起こした力の影響をその部屋の惨状から悟っても、後悔など覚えなかった。
当然だ、と。そう思った。
そして、積み上げ押さえ込んでいたものを、元に戻そうとはしなかった。
そのために、それからはほんの些細なことで、崩れたすべてのものを引き連れて、彼の渦巻く激しい感情は簡単に「力」へと変換されていくようになった。
この力でこの世界が壊れてしまうなら、そうなればよいと思った。
世界が壊れるのと、自分自身が壊れるのは、同義だったから。どちらでもかまわなかった。
自分自身を半分失い、同時に、求められる性質を失ったために。
そのとき、ほんとうに、ひとりに、なったのだった――。
「……分かってる」
キレスはかすれた声を漏らした。
「母さんが変わってしまったのは、俺のせい。俺の、この、力のせいで――」
分かっていた。けれど、なかなか認められないでいた。その重みを背負い込むほどの強さを、もたなかったから。
「でも、だからって、どうしたらよかったんだよ。こんなもの……、どうしようもない。どうしようも、ないんだ」
勝手に湧き出る。抑えられない。一瞬、気がついたときには、とっくに外に溢れ出ている。それをいつも、眺めるしかなかった。
だから、そんなものは自分自身ではないと考えていた。それを湧き出させる、何かよくないものがあるのだと、それをこの力のせいにしていた。けれど――。
「わかんねえよ。こんなもの、俺だって……」
自分自身と向き合えば、この怒りがすべて自己不信へと形を変えると、漠然と知っていた。だからこそ、今までずっと、奥へと押し込めてきた。
不信は自身を傷つけ続ける。重くて、背負って歩くことができない。
怒りに形を変えれば、他を傷つけてでも進むことができる。
そのほうが楽だった。留まれば不安はいくらでも湧いて出るから、見ないようにして、そうして、ただ目の前のことをやり過ごせばよいと。
そうやって、目を背けてきたそれらを、目の前に突きつけられたら――。
「キレス」
静かに、ケオルが声した。
「お前は、『月』の力、その性質を、冥界ドゥアトに由来するものだと言った。――じゃあ、ドゥアトの『性質』って、いったい、何だ」
「それは……、」
なぜそんなことを聞かれるのか。黒いものが胸に滲むのを感じながら、キレスは思う。その答えは、明確であるはずだ。
「命を、生を、終わらせる、力」
「そうだろうか」間髪いれず、ケオルが言った。「ドゥアトは、終わらせるものじゃない、終わったものの向かう先だ。ドゥアトが動きを持ってこの、生ある世界を飲み込もうとしているというのか? ――それは、違う。
ドゥアトとは、死後。来世、未来そして明日。遠く仰ぎ見るもの、われわれの進む道、その先にあるもの――そうした意味をもつ言葉だ。ならばその性質は、向かって来るものじゃない、常に、こちらから向かって行くもの。そうなんじゃないのか。
それが、意識すれば逆に感じてしまう。死への恐怖と不安がそうさせる――認識を歪ませてしまうんだ」
そうしてケオルは、きっぱりと、言った。
「月神アンプとしてのお前の役目は、死者を葬送することだろう? その力は、人に死を与えるためにあるんじゃ、ない」
「けど、実際この力は人の命を奪い去る。簡単に」
「それは、大きな力を持つものなら誰だって同じだろ? ……シエンだってそうだ。あいつはそれを自覚してる、だから避けようとする。――けれど、お前は自覚がなく、そのために避けようがない。それだけだ」
「綺麗事だろ……これを見ても、そう言えるのかよ」
キレスは赤黒く染まった左手を、目の前に突きつける。
「この手で肉を裂き、死に至らしめる――そんな殺し方を見ても、同じだって言えるのかよ!」
「……そうだな」ケオルはわずかに顔をしかめ、言った。「多くはもっと間接的な方法をとりたがるだろうな。自身のしていることから目を逸らしたいがために。――卑怯なんだよ。同じ、殺しているのに、そうやって誤魔化しているだけだ。お前はそれを、誤魔化さない。ただ正直なんだよ」
正直すぎる。ケオルは小さく加えた。
キレスは黙った。胸の奥がざわざわとかき乱される。言葉を聞けば聞くほど、不信が大きく頭をもたげてくる。
「……じゃあ、なんで遠ざけようとするんだ。この力を、どうして忌み嫌い、避けようとするんだ!?
千年前からだ。この力は魔性であると、得体の知れないものだと、そう言って、いつでも突き放されてきた――死を、怖れるように」
今度は、ケオルはすぐには答えなかった。キレスの鋭い非難を、ただそのとおりに受け止めるしかないというように。
「死を怖れるように、か」ケオルは観念したように、つぶやく。「得体の知れない力……そう、俺たちが、それを――『月』の性質を、正しく知ることがなかったから、理解することができなかったから。だから、怖れた。受け入れるには、知識が必要だった。けれど、積み上げたものがほとんど、何もなかった」
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき