からっ風と、繭の郷の子守唄 第86話~90話
明治維新以降。政府は輸出産業の育成に力を注いできた。
生糸は重要な輸出品のひとつとして注目された。
良質な蚕の飼育のために、桑の栽培が盛んに奨励されてきた。
昭和28(1953)年、凍霜害が発生した時、大量の重油を燃焼するという
防霜試験が実施された。
晴天無風で前日の午後7時の気温が、6℃以下の時、霜が降りると言われている。
午後7時の気温が8℃前後でも、寒気が南下して、高気圧が通過する条件が
重なればやはり、降霜が発生する。
降霜による被害の実例を紹介しょう。
1893(明治26)年5月6日。初夏を迎えたというのに前夜から北風が吹きはじめた。
気温が低下し、明け方には全国の各地で霜が降り、薄氷の張るところさえ出た。
最低気温は長野県で氷点下1.8℃(5月として歴代1位の低さ)。
東京で3.5℃。北陸の金沢では、1.8℃を記録した。
時ならぬ降霜は、中部から東北地方の一帯にまでひろがる。
埼玉県では、青々と葉をつけていた桑と茶が2~3日で眞っ黒に変わった。
広大な桑畑が、まるで冬枯れ野のようなありさまになってしまう。
被害の総面積は、1万2千ヘクタール。被害農家は、7万4千戸。
県下の全域にわたり空前の大被害が広がる。
大里郡花園村は、田が少なく、養蚕に農業の活路を見出していた。
前年は春と秋の蚕とも不成績だった。、(この頃の蚕の飼育は年に2回)
この年は糸価が非常によいので、ばん回するため養蚕に力を注いでいた。
例年に比べて、多量の肥料を購入した。
蚕室を拡張し、蚕具も新調して費用をつぎ込んだ。
村人たちは収穫の期待に満ちあふれていた。そこへ突然の大霜が襲った。
桑葉は枯れ尽くし、青葉は一枚もなくなっていた。
二齢にまで達していた蚕はとたんに食糧を失い、3日間というもの、
農民は驚きのあまり何もできなかった。
時がたつにつれて、惨状がはっきりしてきた。
蚕の被害は、秩父、大里などの山間地で特にひどかった。
お茶は入間、高麗などで深刻になった。
いずれの地区においても、全滅に近い状態が発生した。
霜で、桑葉の値が跳ねあがった。農民には買うことさえも不可能になる。
そのうえ大麦や小麦までが不作になる。丹精をこめた茶園も全滅してしまう。
返金の見込みのなくなった農家に、金を貸す者はいなくなる。
『仰ぎ願わくは閣下、資力尽きたる養蚕家に非常の救護を給わりたく、
人民一同泣血歎訴奉り候』
と村民全員連署の切実な訴状が、各地から県へ集まって来る。
県は、人々を救済するために、3万円を支出することに決める。
涙ばかりの補助だが、それでも“飢え”への転落に、いくらかブレーキを
かけることができた。
「こうしたことは、今に始まったことではない。
大地に生きるということは、すべてを受け入れて淡々と生きることだ。
侮るでない。
2~3センチに過ぎない桑の苗だが、なかなかどうして根性が有る。
厳寒の冬を乗り越えていく根性を、こいつらは持っている。
人が寒さに首を縮めてても、こいつらは寒空に向かって堂々と胸を張る。
見習って欲しいもんだ。この桑苗の根性を・・・・
そうは言ったものの来年の春までに、何本残るやら、こいつらが・・・」
(91)へつづく
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 第86話~90話 作家名:落合順平