毎週月曜日のシカさん。~その二~(完)
と言うから、
『そんな事止めてよーっ!!危ないっ!!』
と言ったらお母さんの声のトーンが下がり、
『当たり前よっ!!本当に参加するわけないでしょっ!!あの足で蹴られたら大怪するっ!!』
と当然の事を言った。
まっ、何にしても、その場面を見るまでは半信半疑でいようと思った。
目の離れたシカや親子のシカ、大きなシカや角の大きなシカ…。
そんな中、親子連れに一番会っていたとの事。
こんな事が毎週月曜日のお母さんに起こっていた。
そしてだんだんとシカが逃げなくなって行ったから、“待って。”という言葉も減って行ったようだった。
今、その生徒はお母さんの家に習いに来ているので、シカに会いに行くということはなくなったけど、今も行けばそのシカたちは何も変わらずそこにいるんだと思う。
私はお母さんに、
『たまには会いに行ったら?!』
とは言っているけど、
『用事もないのに行かないよ~。』
と自分勝手なお母さん。
上はそんなお母さんに言う。
『お知り合いになったシカさんたちをそのままでよいのですか。お知り合いになった人には会いに行くのに、シカには会いに行かないのですか。』
と。
そう言われるとお母さんも黙る…。
でもそれがお母さんの性格とも言えるから、もしかしたらシカたちも分かってるのかもしれない。
私はシカや他の動物に食べ物を与えない。
もちろん旦那さんにもダメだと言われているけど、私は物で繋がりたくないのだ。
人と繋がるのも物で繋がってはもったいないと思う。
ただただ、折角誰もが持っている“言葉”と“心”で繋がりたい…とそう思うだけ。
動物にだって言葉はある。
それは“聞こえない言葉”だろうけど、確かに言葉はある。
それが聞こえる人は動物と話せるのだと思う。
そして物で釣った“心”は次に何処へと繋がるのだろうと考えると着地点が見付からない。
誰かに“贈り物を贈りたい”という気持ちと“この人と繋がっていたいから”という気持ちは違うと思う。
無償で繋がってくれた動物たちは、食べ物を乞(こ)うては来ない。
でもそれからも繋がりは続く。
もしそこで初めから食べ物を与えていたならば、“今日はないよ。”という言葉に、すぐその場から心が去ると思う。
それが物で繋がった“証”なんだと思う。
人も同じ所はあると思う。
言葉に出さなくてもその人自身の“心の言葉”には答えが出てるはず。
だから同じようにお母さんもシカに食べ物を与えない。
それが答えかは分からないけど、いつも同じシカたちが待っていて、お母さんを見てもだんだんと逃げなくなって行ったということは、そこに何かの答えがあるからだと思う。
シカたちも私たちに食べ物を与えてくれる訳ではないのだから、同じ事が言えると思う。
どちらかが上に立っても下に立ってもダメなんだと思う。
常に全て平等で同じ位置にいるんだと思う。
動物たちはそういう事を教えてくれる。
作品名:毎週月曜日のシカさん。~その二~(完) 作家名:きんぎょ日和