殉愛
その日から、男の住処の片隅では、天使が存在する事となった。
寝て、起きて、怯え、悪魔を見詰め、帰してくれと涙を零して懇願した。
男はそれに応えない。答えもしない。
悪魔にとって、声を発する事も、言葉を紡ぐ事も、瘴気を生み出す行為に他ならないからだ。
無論、天使に触れる事も、近寄る事もない。
遠くから眺め、美しい金色の髪が揺れるのに眩しげ目を細め、青い瞳が己を映すのに暗い喜びを見出し、白く輝く羽が震えるのに渇きを覚え、柔らかな姿態に思いを馳せ、息苦しい欲望を堪えて愉しむのみである。
やがて天使は、男が自分を放す気がない反面、危害を加える気もない事に気が付いた。
青い目が男を見詰める時間が長くなった。
懇願ではなく、何か別の事を言いたげな顔をするようになった。
少しだけ、男の傍に寄りたがった。
男は喉奥に熱の塊を放り込まれたような、毛穴から一斉に熱が吹き出るような、何とも言い様もない情動に駆られたが、衝動に任せて行動する事だけは押しとどめた。
もはや息苦しさは完全に男に馴染み、常に飢え渇く感覚を抱きながらも、やり過ごす術さえ身に付いた。
慎重に、瘴気が天使に及ばぬ範囲へと、身振りだけで天使を遠ざける。
天使はその度に眉を寄せたが、男が譲歩する気がないのを見て取ると、その場限りは大人しく鳥篭の隅へと身を寄せる。
開いた距離は手を伸ばしても届かぬほど遠い。
安堵と渇求と息苦しさを覚える隔たり。
男は孤独だった。
悪魔の常で、人の子のように家族や友人といった存在は居なかった。
けれども男は、もう、一人ではなかった。