ほしむすび
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忍と有美が交わした口付けはほんの数瞬のものだったが、有美の頭から恐怖を消すのにも、忍の秘密を打ち明けるのにも有効だった。
有美の頭の中は、忍に対して掛けるべき言葉や疑問、それに今まで読んできたありとあらゆる物語のキスシーンで埋め尽くされたし、一方で忍の頭の中もまた有美に対しての言葉を探してオーバーヒートしていた。
唇を離してからも、二人の間で実に多くのものが無言でやり取りされ続ける。お互いの心拍、震え、呼吸。気持ちまでもが白く吐息になって見えるかのように錯覚し、互いに目を凝らす。
少女は二人身を寄せ合って、お互いの気持ちがどこかに書かれているのではないかと見詰め合っていた。星の海の底で、溺れそうなほどに息苦しく。灯台と呼べる道標もここにはない。
忍が先に動いた。そっと確かめるように有美の頬に手を当てる。冷たく細い指先が柔らかい頬を撫ぜる。有美が、困ったような微笑みを浮かべて、そっと二度目のキスを交わしたが、紛れも無く親愛のキスであることにお互いが気づいていた。
お互いに笑い合う。
「ねぇ、今、私がどんな気分だと思う?」
有美が問う。
「冬目漱石の『おっちゃん』で主人公が突然に生徒のストーカーになろうと決意するところを読んだ時みたいな、裏切られた気分じゃない?」
忍が照れ隠しに有美の真似をして答えたので、有美はくすくすと笑った。
「違うよ。頭田栄一郎の『TWO PIECE 2』で主人公がずっと鍵を探していた宝箱を敵が壊して開けちゃった時の気分」
……それってどんな気分なのだろう?
忍の疑問がはっきりと顔に出たが、すぐに有美の言葉が続いた。
「嬉しいけれど、切なくて、喜んでいいのかすぐには分からなくて。でも、胸の中はとても暖かいの。もっともっと、言葉にしたいんだけど、溢れては消えていくみたい。たくさんの本を読んだのに、今この瞬間の気持ちはどんな本にも書いてなかった」
だから、ね?
疑問符を伴う誘い方で、有美は忍と二人で寝袋の中に入った。
隣り合う体温が妙に熱く感じられる。目の前には星が、無数の星々が瞬く。
「ねぇ、しーちゃんはいつから星のことが好きだったの?」
星のことを問われるのは意外だったが、今まで話した事がなかったので、答える。
「たぶん、母さんが死んだ時からかな。お祖母ちゃんがオレに、『強く生きなきゃ駄目よ、忍。メソメソしてたらお母さんが流れ星になって叱りに来るからね』なんて言って励ますんだ。そんなバカなって思ったけど、それ以来星を見上げることは多くなった。いつの間にか好きになった。その頃からかな、剣道も、自分のことをオレって呼ぶのも」
有美の手が寝袋の中で忍の手を握ってきたので、それだけで今の打ち明け話を今まで話した事が無かった理由も伝わったのだと分かる。
「オレも、ゆーちゃんのこと聞いていい?」
星を見上げたまま、手を握り合ったままで忍が問う。
「『事件』はね、よくある誘拐事件なの」
今まで一度も聞けないままにいた事を、問うまでもなく語りだす。きっとこの事が、有美にとっての秘密なのだ。
「私と虎矢を遊園地で誘拐して、身代金の要求。犯人が子ども二人を人質にパニックになりながら最後に逃げ込んだ先が観覧車で、長い長い三十分を掛けて観覧車が地上に戻ればそこで逮捕。わずか六十分の逃亡劇は終幕。恐怖に縛られたままジェットコースターとか観覧車に乗らされた子どもには、二度と消えないトラウマを残して、ね」
握られた手の痛いほどの強さに、有美の消えることの無い痛みが滲む。忍は、有美が修学旅行先の大阪でもアトラクションがたくさんあるテーマパークに行くのに反対したのを覚えている。デートでも一度も遊園地の話はない。有美はもう二度と、楽しく絶叫マシーンに乗ることはできない。本当の恐怖を知っているから。
「あまり、しーちゃんには心配してほしくなかったから、ね」
握り締めた手を少し緩めて、有美がそっと言ったので、
「オレも、ゆーちゃんを悩ませたくなかったんだ。それに、傍で話したりしているのが一番楽しかった」
忍も続いてそう言った。
二人にはそれだけで充分だった。
「虎矢に奇襲を掛けたのって、本当?」
しばらくして有美がそう尋ねたので、忍は内心で悪態をつきながら正直に答えた。
「親友の許婚を試しただけだよ。あと、今夜の許しを、ね」
有美もニヤリとして忍の言葉を聞く。
「虎矢がね、『うちの護衛に雇えないかな、友人割引で』って割と本気で言ってたの。私もそうなったらいいなって思うけど、しーちゃんはまだ隠している事あるでしょ?」
色恋沙汰には疎いのに、こういうところは鋭い。ゆーちゃんにはもう何を隠しても無駄だね、そう軽口を叩きながら、告げる。
「旅に出るよ。明日には発つ。とりあえずは南十字星を観に、オーストラリア。そこからは、気の向くままに。大学が始まるまでの一ヶ月は帰ってこない。もしかしたらそのまま当分向こうかも」
静かに吐息が聞こえる。計画は、この星観を決めた時点で決まっていた。有美の結婚式はおろか、卒業式も待たずに日本を出る。自分の中の整理をつけるために。新しくもっと世界を知るために。
「きっと、帰ってきてね」
止められはしなかった。胸に静かな痛みがあるが、それ以上にキスで交わした温もりが今も忍の胸を包み込んでいる。だから、
「うん、きっと。お土産を持って遊びに行くよ。新婚生活を邪魔しに」
軽く言うことができる。親友として。
それからはしばらく他愛もない会話が続いた。有美が、忍はモテモテなのに全く男の子の気持ちに気づかないのは少々将来のことが心配である、と重々しく述べた。忍はお返しに、有美の比喩表現が、恐らくは同じくらい本好きなのであろう虎矢を除いて、常人には半分も理解できない暗号のようであると指摘した。お互いに膨れたり笑いあったりする優しい時間を、輝き廻る星々と遠く一組の瞳が見つめていた。
話しても話しても、話題が尽きることはない。時には心地よい沈黙をも楽しみながら、二人きりの秘めやかな星観は徐々に更けていく。
「しーちゃんは、何で星に名前があって星座があって、神話や物語があるのだと思う?」
静かな声で有美がそう聞く。有美は星の名前には詳しくなくとも、星座にまつわる神話や物語には詳しい。忍はその逆。星の名や星座の形には詳しいが、物語はおぼろげにしか把握していない。
「理由なんて、考えたことも無かったな。オレには、星はそういう名で、そういう星座でそこに在るものだったから。今も、見えている星の間に見えない繋がりが見えて、星座が浮かび上がるし」
うらやましぃ~、と呟きながらも、有美は恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。
「私はね、最初に星に名付けた人は寂しがり屋だと思ったの。寂しくて名付け、その名を呼び、物語を与えて、星たちが寂しく無いように繋いで星座にしたの」
熱に浮かされたような言葉。ギュッと手が握られ、すぐ真横から見つめられる。
「人もきっと同じ。寂しくて名を呼び、手を繋ぎあって物語を紡ぐの」
だから、
「私はしーちゃんが好き。虎矢と結婚するけど、ずっとずっと忍のことが好きだよ。そのことだけは、忘れないでね」
「オレも、有美のことが好き。ずっとずっと」