ほしむすび
☆
星が好き。
有美が好き。
本を読む有美が好き。
出会いは他愛もなかった。オレが図書室に返却した『銀河鉄道の昼』のタイトルに目をつけて、有美は初対面でいきなり聞いてきた。
「あなたもその本が好きなの?」
世の本好きが皆そうなのかは分からないけれど、彼女は自分が好きな本を読む人は皆良い人だと思い込むらしかった。そのおかげで、彼女に話しかける人は多く、図書室の云わば、名物だった。後に、彼女と仲良くなったオレも本好きだと思われたのか、話そうとしてくる男連中がかなりいたが、すべて目線で断った。中には図書室以外でも声を掛けてきたり、下駄箱に手紙を入れたり、放課後に闘技場裏に呼び出されることもあったが、大抵は竹刀を持って睨みつけるように出向いたら強張った笑顔で挨拶されただけで済んだ。
それらのエピソードを有美はことごとく引用を用いた比喩で茶化した。比喩の内容を完全に飲み込めたことは数えるほども無いが、そんなやり取りも好きだった。
ニ、三年生で同じクラスだったこともあり、オレたちは本をきっかけに気軽に話す友だちになっていった。それもかなり仲が良い友だちに。
剣道部に所属するオレは毎日練習に打ち込んだが、放課後に図書室で有美のお気に入りの本を借りて帰るのが日課になっていた。感想を語り合うことと家の方向が同じことを言い訳に、週の半分は図書委員の仕事を終えた有美と一緒に帰った。天文部にも籍を置いていたが、その理由は自由に星観台を使い放題になるという一点で、有美のトラウマを知ってからは一つ目の秘密になった。
二つ目の秘密を抱くまでに、時間は掛からない。むしろ自分の感情に気づくことに時間が掛かっていた。オレは有美のことが好きになった。友だち以上に。誰よりも。
告白せずに秘密にしたのは、彼女との関係を壊したくなかったことと、オレたちがあまりにも違う世界に生きているからだった。一週間後の卒業式を過ぎれば、オレは大学へ進み、彼女は結婚式を挙げる。
財閥の令嬢でもあった彼女にはオレと知り合う前にはもう許婚がいて、実際彼女はその許婚のことが好きらしく、事あるごとに彼と会っているらしかった。何でも、『事件』後にずっと看病してくれたのが当時許婚候補だった幼馴染のその男だったとか。話が出来すぎているが割り込みようがない。
トラウマや許婚、彼女の仕草の癖や、読書の傾向に独特な比喩感覚。それら一連のことを知る頃には最初の出会いから大体一年が経過していて、オレの気持ちはいよいよ膨れ上がる一方だった。同時に秘密を抱き締めて離すまいという決意はますます固まった。
それでも堪えようがない鬱憤を晴らす必要はある。オレは祖父に頼んで柔道の投げ技をいくつか教わった。祖父には「大事な人を守るため」と言ったが、正確には「(好きな人の)大事な人を(憂さ晴らしに)投げるため」だった。あまりにも身体に染み込んでいて手加減が利かないので、剣道の技を使うと命を獲ってしまいかねない。
決行は彼女が結婚式の招待状をオレに渡した日に即、決定された。はにかむ様に招待状を渡す有美は綺麗で、夫になる男を投げずにはいられない気分を最高に盛り上げた。迷い無く実行に移す。
有美との付き合いで許婚の事はすでにかなり知れていた。知りたくも無いことまで知っているといってもいい。好きな人が語る惚気話がどれだけの殺傷力を持っているか、オレは図らずも知ってしまった。有美ならばきっと「まるで、あだち欠の『バトン』で双子の片割れがもう一人のふりをして好きな娘に会いに行ったが為に、二度と立ち直れなくなる時みたいね……」と悲しそうに言いそうな気がする。まさかそのまま引き篭もってしまって兄が代わりに甲子園を目指すなんて、ね。野球部全員を誘惑する北ちゃんは未だに魔性の女の最高峰とされているらしい。
夜道。バイト帰りの許婚に容赦なく後ろから不意打ち。そのまま投げる。と、信じられないことに、黒帯まで取ったオレの投げを耐えた。苛立たしげな声で男は言う、
「おいおい、そんなアタック掛けられても困るぜ。俺には生憎、プリティな許婚がいる」
無言で金的を蹴り上げてやった。いい気味だ。約三分間ほど苦しむ男を観察して鬱憤を晴らす。標的の情けなさに……涙が少し、零れた。
存分に観察し、ビデオカメラでもキチンと醜態を録画し、オレはその場を去った。あとは適当な動画サイトに流せばいい。少しは気が晴れるかもしれない。声だけが、こちらの背を追ってきた。苛立たしげな、低い声。
「おい、お前、逃げるなよ!」
「逃げるさ、バカじゃないんだ」オレは振り向かずに言う。
もはや数十メートルは離れていたが、数泊置いて声はまだ続いていた。
「本当のバカがいるじゃねぇか、俺の目の前に! 自分の気持ちを隠して逃げるなと俺は言ったんだ!」
反射的に振り返る。未だ恥ずかしい姿勢で腰を叩いている男が、見上げもせず見下げもせず真っ直ぐにオレの目を見ていた。
――オレのことを、知っている。オレの、気持ちまでも。
知らず、歯軋りをしていた。自分が相手を知っているくらい、相手は自分を知っている。その事実に胸が軋む。有美はオレのことを、何と言って話すのだろう。
もちろん、『友だち』だ。
「はっ! 闇討ち結構。上等だ! だがな、こちとらタダでやられるつもりは毛頭ない。好きでもない女の相手なら願い下げだが、惚れた女のオトモダチ相手なら付き合ってやるぜ。折角いろいろと習ってるしな」
溜め息一つ、肩の力を抜いて呆れ顔で男を見やる。名は確か――凪・虎矢。カーム・カンパニーの三男。一言で評するならば、時代遅れの熱血バカ。ただ、『惚れた女』というのが本気らしいのは目でわかった。オレでは敵わないということも。長物を使えば勝てそうだが、命の保障ができないので自重する。
「ん?」
無言で彼の前まで近づき、聞く。
「一晩、有美と二人きりで星を観たい」
虎矢はニヤリと笑って、
「お前も『銀河鉄道の昼』が好きなのか?」
有美と同じように瞳を輝かせて聞いてきたので、
「オレは有美が好きなんだよ」
まともに目を見て言ってやった。虎矢は一つ頷くと、落とした鞄を拾いながら答えた。まだ腰に片手を当てている。……ごめん、いい気味だ。
「一晩だけ、それも俺は遠くから見てるからな。夜に二人きりだと危ないし。泣かせたらタダじゃ置かないぞ?」
オレは何も言わずに立ち去る。虎矢のことは、悔しいことに、嫌いにはなれなかった。
そして今夜――星観台。
有美を抱き締めたところで頭が真っ白になった。早く有美を降ろさないといけない。ともすると、初めての病院送りが有美になってしまいかねない。今まで抱えていた気持ちと混ざり合って、頭の中は支離滅裂になっていく。
とりあえず、彼女の頭から「高い場所にいる」という事実を忘れさせるだけの衝撃を与えたらどうだろうか。脳の中での確認やその他諸々の検証をすっ飛ばして、オレの身体は勝手に動く。
キスは、初めてだった。
女であるオレが、女の子に恋したことも。