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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

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 北神であったという事実なんて、大したことはなかった。記憶を失っているキレスは、自身の出身がどこかさえ確かでない。南はもちろん、西も東も違うと言われ、もし中央でなければ、北かもしれないと、常々考えていた。……どこでもいい。そんなことは、どうだっていいのだ。明らかになればどうするのかとか、その先のことだってこれっぽっちも考えなどしない。ただ、その立つ足元さえはっきりしない、ふわふわと曖昧な場にひとり立たされているような、その不安定な感覚がひどく不快だった。それは、友人らと共にいるときでさえ払拭できなかった。
 彼らはときに、はっきりとこの場との“つながり”を見せ付けてくる。それは姉や兄という存在であったり、失った父母の思い出であったり、この神殿に訪れるほかの神々との共通の話題であったりした。特にケオルは顔が広いらしく、彼のことを知らないものが少ないというほど。顔が似ているせいで、知りもしない者から親しげに声をかけられ、結果まちがいであったという経験を何度くり返したか知れない。それらは僅かな期待をあっさりと裏切ってゆくばかりだった。今はもう、期待などしない。するだけ馬鹿馬鹿しい。誰も知りはしないのだから。
 そんなことよりも、ただ今、ここにいるという事実を、当たり前のように受け止めている彼らの様子が、キレスにとってはより苦痛だった。長い繋がりの上で、確かにここにたどり着いた彼らと違って、キレスは振り返るものを一切もたずに、唐突にここからすべてを始めるよう強いられた。だから、ここで得た繋がりも、いつ切れるか知れないと考え恐れていた。ここに居ることに疑問を抱く必要がないこと、それがひどく羨ましく、また、羨ましいと思う自分が嫌で仕方がない。浮かぶ感情を一つ一つ捨てて、その瞬間だけを見るようにしてきた。だから、何もかもが曖昧に感じる。
 けれど、キポルオだけは違った。なぜか、違うと思えた。
 彼は確かに、ジョセフィールやフチアと一緒にいる事がある。けれど普段は森で、ただ一人でいることが多い。その瞳にいつでも深い影を落として、従弟であるはずのシエンとも馴れ合うことなく……どんな繋がりもないように思えた。
 ――いや、違う。彼は他のもののように、彼自身の何かをはっきりと持ち、それを相手に押し付けるところがないのだ。
 ただただそばに在る。そしてこちらを決して拒むことがない、そんな安心感。抱擁のように、体温を感じさせることもない。静かに、ただ静かに、けれど確かに在り続けるもの。そこで初めて、キレスは自分自身の存在と向き合う。受け止める。肯定も否定もない。
 キレスは垂れ下がる葉をくぐり、樹の根元に座り込んだ。枝から垂れる葉の連なりが、カーテンを引いたように視界を覆う。守るように影が包むその場所は、自分だけのもの。
(なんで……かな)
 ほんとうは、誰より近く感じていた。理由などない、ただそう感じていたかったのだ。この、深い、心地よい闇を、自分だけが知れればよいと思っていた――それなのに。
 やはり、あったのか。“つながり”が。
 当たり前のことなのに。……なければよいと、思っていた。
 近いと思っていたものが遠ざかる。キレスはそれを、腕を伸ばして引き寄せようとはしなかった。無駄と分かっていることだから。
 ごつごつとした幹に背を預けると、そのままずるずると根元まで滑り落ちた。重なり合う枝葉の覆いからは、光が一条も降りてこない。……心地よい。この影は、自分の中にわだかまるものを暗い淵に溶かし去る。もう見る必要はないと、そう教える。なんとも心地よい。
 羽音が届いた。はっと目を起こすと、枝のひとつをしならせ鳥が降り立つ。
(あいつ、さっきの――)
 それはおよそこの場に似つかわしくないと思える、真っ赤な羽毛の鳥だった。この、静かな闇の憩いを切り裂いて、燃えるように色を差す鳥。それは気のせいか、じっとこちらを見下ろしているよう。
 キレスは見上げたその目を離さない。……つい先ほど、シエンらと中央から戻ってきたときに、やはりこの場所で、この赤い鳥を見つけた。いままで見たことのない鳥。そのときも、じっとこちらを見ているような気がして、飛び立ったそれを追いかけた。自分でも、なぜだか分からなかった。ただ、胸がざわざわしたのは、あの鳥のせいに違いないと、そう感じただけだ。
 睨み合ううちに、ふと思い当たり、キレスは首元に手を伸ばした。そこには、赤いビーズ帯の飾り。それは今もつ記憶の初めから、ずっと身につけていたものであり、また、その裏に刻まれた文字から、彼自身の名を知ったものでもあった。
 こんなものを、ずっと着けているなんてと、自分でも思う。ただひとつの、過去をつなぐもの――けれどこれを外してしまうと、もう何もかも捨ててしまわなくてはいけないような気がして、できなかった。それほどまでに強くはない。そう、自覚していた。
(お前とは関係ないだろ)
 キレスが首元の赤い帯を長い黒髪で覆うと、急に関心をなくしたのか、それともまったく別の理由があったのかは知らないが、その鳥はふっと遠くに関心を向け、また枝を蹴って飛び立った。
 今度はそれを追うことをせずに、キレスは鳥の飛び去った木々の向こうを映す。
 ……と、その影から、キポルオが姿を現した。
 森の木々を抜け、この樹に歩み寄る彼はもちろん、キレスに気付いていた。けれど、一度遠くからそれと見止めただけで、言葉を交わすこともない。それは、いつもと同じ。
 キレスもまた、樹の根元に転がったまま、身を起こそうともせず、ただぼんやりとその姿を映すだけだった。
 キポルオは垂れる枝葉をくぐり抜けると、いつものように、その幹に手を触れる。目を閉じ仰ぐと、彼の力がその樹に注がれるのだろうか、キレスは変化を知ることができた。樹の幹が低く、低く音を響かせる。それは耳ではなく、身体が感じる音だった。どうっと重たく巡る水流のようなその音は、どこかずっと遠くから届くよう。
 枝葉の影はより深く頭上を覆う。それらで胸を満たすようにゆっくりと呼吸をするうちに、キレスは眠りに落ちていた。
「おや、おや」
 そこにもう一つ、影が加わる。
「こんなところで眠っていたとは」ジョセフィールは友人の傍に立つと、気持ちよさそうに寝息を立てるキレスの様子に肩をすくませ、また笑みを浮かべる。「仕方がない、明日からとしようか」
 赤い鳥がまた、どこからか飛んできた。ジョセフィールらの足元に降り立つと、長いくちばしをキレスに向け、長い足を折り大股に歩いては様子を伺っているようだった。
 キポルオはゆっくりと瞳に影をかけ、そうしてまた、彼は静かにキレスを映していた。

      *

 セトは気配を押し殺し、辛抱強くときを待った。
 彼はあの後も北の神殿に帰ることなく、人間界に留まっていた。北西の砂漠地帯に潜み、再び兄の気配をとらえることを期待していた。
 だが――日が地平にかかる今も、一向に現れる気配はない。
(兄上……)
 三年ぶりだった。
 成神してしばらく経ったころ、セトは初めてこの人間界の地を踏んだ。そしてそこで、十年前に死んだと思われていた兄と再会したのだった。