ロロと12人の妻
そのひとがやってきたのは、弓張り月の輝く晩のことでした。
わたしは寝室でひとり眠っていました。大きな足音と、叫ぶような声に目を覚ますと、ノックもなしに寝室の扉が開いて、夫であるスケイルズ卿が入ってきました。ひとりではありません。子どもがいっしょです。12、3歳ぐらいに見えるものの、顔だちが幼いだけで、もしかしたらもうすこし下なのかもしれないと、そんなふうに観察する余裕があったことが、我ながら不思議でした。
子どもは傷だらけで、ちぎれて泥だらけになった布きれを腰に巻いただけの、ほとんど裸にちかい姿でした。夫に腕をつかまれ、全身を揺さぶるように暴れて必死に逃げようとしていますが、夫の手はびくともしません。
「どうなさったんですの。その子は……」
「拾ってきた。面倒を見てやれ」
起こしてすまないという顔ひとつせず、まるで当然というようにいって、夫は子どもを室内に押しこむと、さっさと行ってしまいました。
夫は隣国へ武器輸入の交渉に出かけ、数週間は帰ってこないはずでした。突然のできごとに、わたしは呆然としてしばらく動けませんでした。
すこし落ち着いてから、寝着を胸の前でかきあわせて、おそるおそるベッドを下りました。床にうずくまっている子どもに近づいてみると、かすかに饐えた匂いが漂ってきました。
髪が長く、肌が白い、どこか中性的な印象を与える男の子でした。警戒心を露にした黒い瞳に見つめられ、わたしは思わず狼狽してしまいました。
わたしをにらみつけながら、少年は吐き棄てるようになにかいいました。短く切るような独特の発音に、わたしははっとしました。
「あなた……」
わたしは言葉を失い、代わりに寝着のなかからネックレスを抜き出しました。深緑色に輝く宝石が埋めこまれたネックレスを見て、少年は顔色を変えました。立てていた膝を折り曲げてその場に跪き、額を床に擦りあわせんばかりにしています。頭を下げたまま、絞り出すような声で、いいました。
「ヴェラ様」
わたしはそっと少年の前にしゃがみこみ、その豊かな髪に手を触れました。
「顔を上げなさい」
少年は動こうとしません。わたしはできるかぎりの穏やかな声でさらにいいました。
「わたしはなにもしませんから、安心して。さあ」
少年がゆっくりと頭を持ち上げます。間近でその顔を見たわたしは、ため息を呑みこみました。
まだあどけない顔は、恐怖と緊張に歪み、殴られたような跡がいくつもありました。なにをされたのか、わたしにはすぐにわかりました。
夫は決して善良な人間ではありません。わたしにしても、手を上げられたことは数えきれないほどです。しかし、こんなひどい仕打ちははじめてでした。
「あなた、名前は?」
「ロロです」
「そう、ロロ。家はどこなの?」
「ブリュースターです」
「ブリュースター。いいところね」
「はい。ヴェラ様……」
「父はどうしているかしら?」
わたしの質問に、ロロは言葉を詰まらせました。
「噂しか……でも、あまりよくないと聞きました」
「そう……」
「ヴェラ様のこと、ご心配なさっていると思います」
「そうね。わたしも会いに行きたいけれど……」
わたしはため息とともに立ち上がりました。
「さあ、こっちへ。体を洗ってあげます」
「とんでもありません。ヴェラ様のお手を煩わせるわけには……」
「気にしないで。そのままではいられないでしょう」
「自分でできます」
「屋敷のなかをひとりで歩ける?」
「では、どなたかに……」
「侍女にやらせたりしたら、夫に叱られてしまうわ。彼はわたしにやらせたいのだから」
それ以上拒むこともできず、ロロは黙ってわたしのあとをついてきました。その幼い視線を背中に感じながら、わたしは全身が燃えるような屈辱に耐えていました。
スケイルズ卿には12人の妻がいました。同盟国からやってきた正妻として、たいせつにたいせつにあつかってもらえるものと信じて嫁いできたわたしの夢は、数年もしないうちに砕き壊されてしまいました。
けっきょくのところ、夫がほしいのはわたしの父の財産と、周辺国のなかでも随一と名高い軍隊だけだったのです。彼は父の財力と軍事力を利用して、次々にほかの土地を吸収、自らの権威を巨大なものにしていきました。それがたとえ父の意図にそぐわぬやりかただったとしても、支援をやめるわけにはいきません。なにしろ、たったひとりの娘を人質に取られているのです。
父が倒れたという事実を聞いたのは、つい最近のことでした。隣国へ渡っていた兵士が、こっそりと遣いをくれたのです。
知らないはずがないのに、夫はなにも教えてはくれませんでした。わたしの行動は常に夫の監視下におかれ、屋敷の外に出るには彼の許可が必要でした。しかし、故郷へ一度顔を見せたいと、それとなく口にしただけで、夫は烈火のごとく怒り、これまで以上にわたしの自由は奪われました。わたしの寝室は屋敷の奥に移され、もっとも仕立てのいい部屋には、第二夫人のヒルダが入ることになりました。
側室よりも邪険にあつかわれ、屋敷のなかにさえ、気が休まる場所がない。このような生活のどこに幸せがあるでしょう。わたしの神経は磨耗し、発狂せずにいるのが奇跡といえるほどでした。
「ロロはどうした?」
翌朝、テラスでワインを飲んでいた夫が、わたしを呼んでいいました。
「今、お医者様がいらして……」
「医者だと?」
夫はわずかに体を起こし、怪訝そうな顔を向けてきました。
「なぜ医者がくるんだ」
「わたしが呼んだんです。熱があって、お腹の調子もよくないようでしたから」
「よけいなことを」
夫はあからさまに顔をしかめましたが、それ以上はいわず、またワイングラスを傾けました。
「どうしてあの子を連れてきたんです」
「理由などない。たまたまだ」
新しいボトルの栓を抜くように身振りで命じながら、夫は無感動にいいました。
「馬を走らせていると、目の前の畑に母子がいてな。母親のほうはすこし年齢がいっていたんで、子のほうを連れてきたんだ。女かと思ったんだがな」
母親の目の前でとは、惨いものです。わたしは吐き気に耐えながら、夫のグラスを赤い液体で満たしました。
「わたしの国でそんなことをなさるなんて……」
「ああ、そういえば、あそこはおまえの故郷だったな」
さも今思い出したというような口ぶりでしたが、そんなはずはありません。夫の足に縋りついて責めたてたいと思いましたが、どのような仕打ちを受けるかを想像すれば、できませんでした。
「このたびの闘いで、国には男手が足りません。後生ですから、あの子を返してやってください」
細い声でいうと、夫は突然表情を変えました。あっと思ったときには、わたしの全身はワインの赤に染められていました。
「わたしに意見しようというのか」
「そんなつもりでは……」
「あれを手放すつもりはない」
わたしの話にはまるで耳を傾けようとせず、夫は一方的にいいました。
「わたしはあのロロが気に入ってるんだ。新しい妻に迎えようと思っている」
わたしは耳を疑いました。正妻であるわたしの国の、しかも男を妻にする。正気の沙汰とは思えませんでした。
わたしは寝室でひとり眠っていました。大きな足音と、叫ぶような声に目を覚ますと、ノックもなしに寝室の扉が開いて、夫であるスケイルズ卿が入ってきました。ひとりではありません。子どもがいっしょです。12、3歳ぐらいに見えるものの、顔だちが幼いだけで、もしかしたらもうすこし下なのかもしれないと、そんなふうに観察する余裕があったことが、我ながら不思議でした。
子どもは傷だらけで、ちぎれて泥だらけになった布きれを腰に巻いただけの、ほとんど裸にちかい姿でした。夫に腕をつかまれ、全身を揺さぶるように暴れて必死に逃げようとしていますが、夫の手はびくともしません。
「どうなさったんですの。その子は……」
「拾ってきた。面倒を見てやれ」
起こしてすまないという顔ひとつせず、まるで当然というようにいって、夫は子どもを室内に押しこむと、さっさと行ってしまいました。
夫は隣国へ武器輸入の交渉に出かけ、数週間は帰ってこないはずでした。突然のできごとに、わたしは呆然としてしばらく動けませんでした。
すこし落ち着いてから、寝着を胸の前でかきあわせて、おそるおそるベッドを下りました。床にうずくまっている子どもに近づいてみると、かすかに饐えた匂いが漂ってきました。
髪が長く、肌が白い、どこか中性的な印象を与える男の子でした。警戒心を露にした黒い瞳に見つめられ、わたしは思わず狼狽してしまいました。
わたしをにらみつけながら、少年は吐き棄てるようになにかいいました。短く切るような独特の発音に、わたしははっとしました。
「あなた……」
わたしは言葉を失い、代わりに寝着のなかからネックレスを抜き出しました。深緑色に輝く宝石が埋めこまれたネックレスを見て、少年は顔色を変えました。立てていた膝を折り曲げてその場に跪き、額を床に擦りあわせんばかりにしています。頭を下げたまま、絞り出すような声で、いいました。
「ヴェラ様」
わたしはそっと少年の前にしゃがみこみ、その豊かな髪に手を触れました。
「顔を上げなさい」
少年は動こうとしません。わたしはできるかぎりの穏やかな声でさらにいいました。
「わたしはなにもしませんから、安心して。さあ」
少年がゆっくりと頭を持ち上げます。間近でその顔を見たわたしは、ため息を呑みこみました。
まだあどけない顔は、恐怖と緊張に歪み、殴られたような跡がいくつもありました。なにをされたのか、わたしにはすぐにわかりました。
夫は決して善良な人間ではありません。わたしにしても、手を上げられたことは数えきれないほどです。しかし、こんなひどい仕打ちははじめてでした。
「あなた、名前は?」
「ロロです」
「そう、ロロ。家はどこなの?」
「ブリュースターです」
「ブリュースター。いいところね」
「はい。ヴェラ様……」
「父はどうしているかしら?」
わたしの質問に、ロロは言葉を詰まらせました。
「噂しか……でも、あまりよくないと聞きました」
「そう……」
「ヴェラ様のこと、ご心配なさっていると思います」
「そうね。わたしも会いに行きたいけれど……」
わたしはため息とともに立ち上がりました。
「さあ、こっちへ。体を洗ってあげます」
「とんでもありません。ヴェラ様のお手を煩わせるわけには……」
「気にしないで。そのままではいられないでしょう」
「自分でできます」
「屋敷のなかをひとりで歩ける?」
「では、どなたかに……」
「侍女にやらせたりしたら、夫に叱られてしまうわ。彼はわたしにやらせたいのだから」
それ以上拒むこともできず、ロロは黙ってわたしのあとをついてきました。その幼い視線を背中に感じながら、わたしは全身が燃えるような屈辱に耐えていました。
スケイルズ卿には12人の妻がいました。同盟国からやってきた正妻として、たいせつにたいせつにあつかってもらえるものと信じて嫁いできたわたしの夢は、数年もしないうちに砕き壊されてしまいました。
けっきょくのところ、夫がほしいのはわたしの父の財産と、周辺国のなかでも随一と名高い軍隊だけだったのです。彼は父の財力と軍事力を利用して、次々にほかの土地を吸収、自らの権威を巨大なものにしていきました。それがたとえ父の意図にそぐわぬやりかただったとしても、支援をやめるわけにはいきません。なにしろ、たったひとりの娘を人質に取られているのです。
父が倒れたという事実を聞いたのは、つい最近のことでした。隣国へ渡っていた兵士が、こっそりと遣いをくれたのです。
知らないはずがないのに、夫はなにも教えてはくれませんでした。わたしの行動は常に夫の監視下におかれ、屋敷の外に出るには彼の許可が必要でした。しかし、故郷へ一度顔を見せたいと、それとなく口にしただけで、夫は烈火のごとく怒り、これまで以上にわたしの自由は奪われました。わたしの寝室は屋敷の奥に移され、もっとも仕立てのいい部屋には、第二夫人のヒルダが入ることになりました。
側室よりも邪険にあつかわれ、屋敷のなかにさえ、気が休まる場所がない。このような生活のどこに幸せがあるでしょう。わたしの神経は磨耗し、発狂せずにいるのが奇跡といえるほどでした。
「ロロはどうした?」
翌朝、テラスでワインを飲んでいた夫が、わたしを呼んでいいました。
「今、お医者様がいらして……」
「医者だと?」
夫はわずかに体を起こし、怪訝そうな顔を向けてきました。
「なぜ医者がくるんだ」
「わたしが呼んだんです。熱があって、お腹の調子もよくないようでしたから」
「よけいなことを」
夫はあからさまに顔をしかめましたが、それ以上はいわず、またワイングラスを傾けました。
「どうしてあの子を連れてきたんです」
「理由などない。たまたまだ」
新しいボトルの栓を抜くように身振りで命じながら、夫は無感動にいいました。
「馬を走らせていると、目の前の畑に母子がいてな。母親のほうはすこし年齢がいっていたんで、子のほうを連れてきたんだ。女かと思ったんだがな」
母親の目の前でとは、惨いものです。わたしは吐き気に耐えながら、夫のグラスを赤い液体で満たしました。
「わたしの国でそんなことをなさるなんて……」
「ああ、そういえば、あそこはおまえの故郷だったな」
さも今思い出したというような口ぶりでしたが、そんなはずはありません。夫の足に縋りついて責めたてたいと思いましたが、どのような仕打ちを受けるかを想像すれば、できませんでした。
「このたびの闘いで、国には男手が足りません。後生ですから、あの子を返してやってください」
細い声でいうと、夫は突然表情を変えました。あっと思ったときには、わたしの全身はワインの赤に染められていました。
「わたしに意見しようというのか」
「そんなつもりでは……」
「あれを手放すつもりはない」
わたしの話にはまるで耳を傾けようとせず、夫は一方的にいいました。
「わたしはあのロロが気に入ってるんだ。新しい妻に迎えようと思っている」
わたしは耳を疑いました。正妻であるわたしの国の、しかも男を妻にする。正気の沙汰とは思えませんでした。