海の向こうから
駅から車で数分、小高い岬の上にある展望台に車を止めて私たちは広場に歩き出した。初冬の海から吹いてくる風は強くて冷たいけど、さっきまで狭い軽自動車に乗っていたからちょっと気持ちいい。
「広い所だけど、海が見える他に何にもないね」
「なかったら違う何かを見つけてみよう」
思わずこぼれた私の本音を先生は聞き逃さなかった。だけど先生はいつでも悪く言わず、そこから良いところをいつでも見つけてくる。そんな優しいところは見習わなければといつも思う。
「あれ、あそこに何か建ってマス」
回りをキョロキョロ見ているとイリーナさんは岬の一番先に石碑のようなものが建っているのを見つけた。石碑なら何か彫られてあるだろう。私たちはその石碑にヒントを得ようと躍起になって、岬の先まで駆け寄った。
「これが、駅員さんの言ってたヒントか……」
誰もこなさそうなところに小さな碑が建っている。一目見ただけで問題解決に一歩近づいたことが分かって少し嬉しくなったけど、まずはこれを読まなきゃならない。
「ナジエージタ号への鎮魂」
長い文章が刻まれている。日本語の横におそらくロシア語であろう文も併記されてある、私には意味はわからないけど文中で一つだけわかる単語がある。それが「Κаинохама」だ。イリーナさんはその文章を読んで頷いている。
「昭和55年に貝浜の沖でソビエト連邦の船が沈没したそうだ」
「そういやそんなことあったぞ。そうか、随分前なんじゃな」
ここにいる四人でそんな事故があったのを知っているのはおじいちゃんだけだ。私たちが生まれる前にここの沖でナジエージタ号という船が沈んだそうだ。だけど、一つ聞きなれない国がある。
「ソビエト?」
「当時はソ連という国があったんじゃよ」
「アメリカに並ぶ大国だったんだ」
「1991年12月25日にソビエトはなくなりました」
「そしていくつかの国家に分離したんだ」
「その中でもロシアが一番大きい国なのデス」
三人がそれぞれ説明してくれる。たった一つの単語でこれだけ知っている先生たちはすごいと思う。
「ということは、イリーナさんのお父さんとかは生まれた時はソビエトの人ってことだ」
私は先祖代々日本人であるけど、生きながらにして国が無くなったり変わったりする感覚が分からない。
「無理もないよ。日本は今まで制度こそ変われ国として続いてるんだから」
私は碑の先にある海の真ん中を見つめた。そう遠くない昔、今は存在しない国の船が多くの人を乗せたままそこで沈んだのだ。
「この船が沈んだのは1980年だよね。じゃあ当時はソビエトだったんだ」
「そうじゃ、モスクワでオリンピックがあった年じゃの」
モスクワはロシアの首都だ、地理の授業で習ったのでそれは知っている。だけどオリンピックがそこで行われたのは知らなかった。
「へえ、モスクワでは日本はいくつメダル取ったの?」
「ほほぉ、麻衣子は知らんのか。まあそうじゃろうそうじゃろう」
「日本はオリンピックに参加してないんだ」
「当時はソビエトとアメリカの仲が悪かったのデス」
イリーナさんの顔を見ると、言葉が詰まり表情がおぼつかなくなっていた。私は横に書かれた日本語の説明を見て沈没事故があったことがわかったけど、この先に書いてあることはどうやら日本語とロシア語では少しニュアンスが違うようだ。
「いいんだよ、言いたくない事が書いてあるなら」
先生が様子の変化に気付いて話しかけるけど、イリーナさんは青い目をしっかり開いて頷いて大丈夫な様子を見せた。
「それって、昔の話でしょ?今はこうして仲良く一緒にいるじゃん!」
私はイリーナさんを元気つけようと笑って見せた。するとイリーナさんは「そうデスね」と頷いて碑に書かれたロシア語の文章をぽつりぽつりと読み始めた。
「貝浜の漁師達が懸命に救助に当たり、一人の命を救ったにも関わらず、ソビエト政府は即座に身柄を引き受けただけで以後何の連絡もない――、とアリマス」
「それって、酷くない?」
「麻衣子さん――」
私は続きを言おうとしたところで先生に止められて次の言葉を言うのをやめた。イリーナさんの顔をチラ見すると、さっき一瞬だけ曇った表情が思い出され、私はすぐにイリーナさんに謝った。
「いいんデスよ」
イリーナさんは笑っていってくれるけど心が少し痛い。
「当時ソビエトはそういう情報は統制されて、事故に遭った人しか知らない可能性が大きいデス」
「どういうこと?」
「救助された人を連れ戻す必要があったんだろう」
「なんで」
「分からない。当時は国どうしが仲が悪かったんだ。国として不都合なことは自国民には言いたくないし、日本にも知られたくないことがあったんじゃないかな」
先生の説明を繰り返して頭でかみ砕いた。確かに、情報が統制されているなら当時のソ連ではこんな事故があったことすら知られてないだろう。連れて帰らされた人も今はどういう生活をしているか調べようがない。
でも、一つの単語だけが私には引っ掛かる。
「じゃあこんな事があったのを知らないなら『貝浜』って言葉もイリーナさんは知らないんだよね?」
「ダー、多分誰も知らないと思います」
「だったら、何でロシアの人がその言葉を知っているのだろう……」私はレコードを胸の前にまっすぐ出して、かすれた文字を見つめた「このレコード、『Κаинохама』って確かに書いてるよ」
「確かにそうだ。じゃあ、何でこのタイトルのレコードがあるのだろう」
「ってことは、これはその頃のレコードなのかな?」
「それは違うと思う。だってそんな時代に出したらすぐに揉み消されてしまうだろうし、何十年も海をさまよう事はないよ」
「ロシアでも今は普通レコードでなくCDを聴きます」
海鳥の鳴く声が聞こえる。群れを成して飛び去るのを目で追いかけると、まさにこのレコードを見つけた波止の先が遠くに見えた。
「何か見えマスカ?」
イリーナさんに聞かれて私は振り向いた。
「船なんだから、港へ向かうよね?今も昔も、この辺を通るとしたら寄房港くらいしかないんじゃない?」
「確かに.やるじゃん麻衣子探偵」
先生に誉められ私はドヤ顔を作った。自分でもビックリするほどのひらめきだ。
「ロシアから来た船があれば何か手掛かりがつかめるじゃろう」
「通訳ならできます」
「じゃあ行ってみよう」
次の目的地は寄房だ。今回問題となったレコードを拾い上げたまさにその近くだ。調査は振り出しに戻る、だけどそこには手がかりがあると信じて私たちは貝浜をあとにした――。