海の向こうから
二 中に何かある
帰宅したのは陽が暮れる前だった。いつもなら釣れるまで粘るので帰る時間は遅くなるのだが、今日は私の不甲斐ない理由で早くなったのは言うまでもない。
私の家は甲山(かぶとやま)市という海のない山合の農村にあって、周囲には遠くまで畑が広がっている。我が家も代々農業で生計をたてていて、現在は両親が毎日畑に出ている。おじいちゃんは、三年前におばあちゃんが亡くなったのをきっかけに農業から一線を退き、私の遊び相手兼躾け役といったおばあちゃんの仕事を引き受けることになった。家は畑の真ん中にポツンとあって、昔は大家族ですんでいたが、一人、また一人独立し、最近では私の兄ちゃんも街の大学に行ってしまい、住んでいるのは両親、おじいちゃん、私の四人となり、この時期辺りから家はとても寒々しく感じるようになる。
おじいちゃんは蔵の横に車を止めると忍び足で玄関ではなく裏の勝手口に回り扉を開けた。
「おし、麻衣子、大丈夫じゃ」
「うん……」
私は声を殺して同じく忍び足で勝手口に入った。
こっそり帰る本当の理由がある。それはうちのお母さんだ。
お母さん、稲垣久子は怒り出したら止まらない。だからお母さんが帰ってくるまでに着替えて風呂に入ってしまえば今日のことは見つからずに済む。この時間ならまだ畑にいるはずだ。早々に釣りを諦めて戻ってくれたおじいちゃんの判断には感謝だ。
パチッ
私がお勝手の戸を閉めたその時だ。奥の台所の電気がパッと点いた。
「えっ、嘘でしょ?」
これはまだ畑にいるはずのお母さんの気配だ。まだ濡れている全身の逆毛が立ち、危険信号を発している。
「あちゃぁ」
「作戦失敗じゃ……」
二人並んで自分の額を叩いた。
「麻衣子!」
「……は、い」
まだ私の姿を見ていないのに何で怒るんだろう?確かに怒られる要素は十分にあるけれど。
「お勝手から帰ってくるだけでも十分怪しいです!」
確かに、後ろめたい事がなければ正面から堂々と帰ってくる。返す言葉がないのは私だけじゃない。横にいるおじいちゃんも大漁だったらご機嫌で同じ事をしていただろう。
お母さんは勝手口の前に回って来た。そこで地獄の閻魔大王が質問を始めるかのような態度で立ち塞っていると、古い家なので土間から床が高く、余計に見下ろされてるように見える。
「どうしたの?そんなに濡れて」
お母さんの言葉は心配しているそれではない。顔を真っ赤にして肩で息をしているのは明らかだ。金棒持って角が生えてたらまさに鬼そのもので、私は水に濡れて冷えた身体が凍り付くように冷え上がった。
「もお、釣りに言って何であんたが濡れるわけ?」
「砂浜に出て転んでしまいました――」
言い訳したって余計に怒られるからここは低姿勢になる。
「すまんのう、ワシがついていながら……」
「お義父さんもお義父さんです。麻衣子はほっといたらどこへでも行ってしまうんですから……」
おじいちゃんがフォローしようとするも、それすら空しく遮られた。一度スイッチの入ったお母さんのオフスイッチはツチノコやネッシー同様未だ発見されておらず、あるのかどうかすらわからない。ここは電池が切れるまでしおらしく待つしか方法がない。
「あのね、海にさらわれたりしたら帰ってこれないのよ、わかってるの?」
「ごめんなサーい……」
それから話は飛び火して、いつだったか最近漁船が沈没して乗組員が救助された話をし出した。砂浜と海の真ん中じゃ関係ないでしょと言いたかったけど言えば説教が朝まで続きそうな勢いだったのでここは黙って反省している顔をした。
「もぉ、ホントに……」
今日は「顔だけ反省作戦」が成功したのか、さっさとお風呂に入って来なさいと言われてその場を許された。
それから、私がお風呂に入っていると慌てて車を出す音が聞こえた。きっとお母さんが買い物に出掛けるのだろう、何だかんだ言いながらおじいちゃんの水揚げを期待してたんじゃんか……。今日ばかりはおじいちゃんのボウズがありがたく思えた、でなきゃそれはそれでお説教の第二部が始まるところだった。私は車が走り去る音を確認して湯船で鼻歌を歌い始めた――。
* * *
「ったくぅ、こんなものを拾って来るから災難に遭うんだ」
持って帰ってくるつもりはなかったのに、積み荷を下ろしていると海に浮いていた四角い紙製のものが紛れ込んでいた。どっちが積み込んだのか二人とも記憶が曖昧だ。
いらないものには変わらないけど、捨てる前にそれが何か少しは分かるかなと思って風呂に入っている間にカーテンレールに吊るして乾かしていたけど、書かれた文字はやっぱり滲んでて判別できそうにない。
「やっぱり要らないや、こんなもの」
私はそれを捨てようともう一度手に取った。よく見たら紙はファイル状になっていて中に何か入っている。
「あれ……、何だろ?これ」
ファイルの間から出てきたものは、真っ黒で薄っぺらいプラスチックでできた、真ん中に小さな穴の空いた、表面に無数の溝がある円盤だった――。