海の向こうから
一 海のバカヤロー
上空の遠い空と厚い雲は秋の終わりを告げて、次なる冬へとリレーする。海は夏に見せた姿とはうってかわり、自らの領域に入ることを拒まんと白く強い波を立て続ける。この辺の人々はこれから来る長く厳しい冬に備えて着々と準備を進めている。国境の長いトンネルのこっち側から来た私たちにはにわかに信じがたいが、あとひと月もすれば周辺は雪に覆われて辺りが真っ白になるらしい。
そんな冬の訪れを告げんとする晩秋の祝日の月曜日、部活のない私はおじいちゃんと一緒に釣りに出掛けた。といっても私が釣りをするわけではなく、たまたま友達と遊ぶ約束が付かなかったのと、家にいるとお母さんが勉強しなさいと言うのが分かっていたのでただおじいちゃんに付いて行っただけなのだけど、天気は中途半端で海は時化、喜び勇んで波止の上から垂らした釣糸は一向に引く気配はない。
「今日の夕飯は心配せんでエエですよ」とお母さんに言っていたおじいちゃんの元気が時間とともに無くなっていくのが何とももの悲しい。
ケータイいじりにも飽き充電が減ってきた。やがて退屈になった私は、前方に広がる砂浜の方へ足を伸ばしたくなった。
「海には近寄っちゃいかんぞ。もし波にさらわれても助けられんからの」
「はーい、大丈夫だよ」
おじいちゃんの言葉に生返事をしてさっさと波止を下りて砂浜に出た。おじいちゃんも腰があまりよくないので走る私を止めることはしないし出来ないだろう。
「もう私も中学生なんだから、自分の行動には責任持てるよ」と思ったけれど声に出して答えなかった。
夏には海水浴客で賑わう砂浜も、この時期には誰もいない。ここが本当に同じ場所なのかを疑うほどだ。人気の無さが波の温度をさらに下げているようにさえ見える。夏場は気が付かなかったけど、これだけ人がいないと遠くの海で船が数隻往来しているのが見える。大きいのやら小さいのやら、船は季節に関係なく活動している。
「あーあ、夏だったら泳げるのになぁ」
といいながら浜に転がっている小石を海に向けて思いっきり遠投した。石は波に呑まれると二度と浮かび上がって来ない。退屈なのは変わらずもう一個、今度は大きめの石を投げた。
「海のバカヤロー、なーんてね」と言おうとしたが、ひょっとして誰かに聞かれたら恥ずかしいのでやめた。
石は引く波に届かず、濡れた波打ち際に直接着地し惰力で海の方へ転がって行くと、次にやって来た波に呑まれて姿を消した。ボーッとして砂浜を見つめていると大波小浪が行ったり来たり。見ているだけで時間が過ぎる。
私はそのまま砂浜を見続けていると、その先の波打ち際のちょっと沖で前へ後ろへどこへいけばいいのかわからずにプカプカとさまよっている四角い物が見えた。
「何だろう――」
この時期誰も立ち寄らない波打ち際、私はそれが気になって濡れないように気を付けながら近寄ってみた。確かに何か浮いている。大きさは約20センチの正方形の薄っぺらいもので、どうやら生き物ではなさそうだ。それが何であるのか荒い波に見え隠れして手を伸ばしてもちょっと届きそうにない。勝手な私の想像だけど、それは私の顔を見て「助けてくれ」と言ってるような気がしてならなかった。
私はおじいちゃんに言われたことどころか一緒に釣りに来ていたことすらすっかり忘れ、その物体を取るのに必死になって、周囲に棒切れとかがないかを探していた。釣竿を貸してなんて言ったらカンカンに怒られるだろうなと思いながら一人でボケてはツッコミながら。
「ったあ……」
波と格闘すること数分、私はついに謎の物体を手にすることが出来た。最初は濡れる事を心配して遠くから手を伸ばしただけだったけど後半投げ遣りになって最初は靴が濡れ、次には靴下まで浸水してきた。
私は本日最初の収穫を両手に取って目の前に掲げた。紙でできたファイルみたいなもので表面に何か文字と思われるものが描かれているがずぶ濡れでにじんでしまっていて全く判別不能だ。
「なーんだ、ただのゴミじゃんか……」
頑張って拾い上げた割りには大して面白いものでもなかったので一気にテンションが下がる。
「よーし、それなら、わ、わわっ!」
私はその物体を大して確認などすることなく、角を持ってフリスビー投げをしようと構えたその時、不意の大きな寄せ波に足を取られ、引き波に見事な大外刈りを受けてその場にスッ転んでしまったのだ。
「ふえーーっ!」
「麻衣子、大丈夫か!」
私の悲鳴を聞いておじいちゃんが波止から垂れた竿をほったらかして走って来た。水が冷たいのと自分の失態でおじいちゃんを困らせた恥ずかしさとで泣くにも泣けず、笑うにも笑えない何とも言えない感情が込み上がってきた。
「何をしとったんじゃ、海には近寄るなと言ったろうに」
「――なんでもない」
おじいちゃんが心配そうに聞いているのはわかるけど、自分も意固地になってしまって質問に答える気にならない。それでもおじいちゃんは私に怒ることなく車からタオルを持ってきて、濡れた身体を拭くように言った。
普段は畑に出ている両親に代わって私のしつけを担当しているおじいちゃん、最近はお母さんの裏指令が厳しいのかそのしつけは厳しいけれど、本来は私の味方であって、こんな時のように自分が一番反省しているのを分かっているからなのか、そんな時のおじいちゃんは優しい。
「仕方ない、今日はボウズじゃが帰ろうか?」
「はーい……」
結局おじいちゃんは魚を一匹も釣ることが出来ず私の大失態で中断することとなり、私は服を濡らしてしまうわで、踏んだり蹴ったりの一日だ。私はさっき言おうとして恥ずかしいのでやめたあの言葉を海に向かって叫んだ。もう既に恥ずかしいんだからもういいや――。
「海のバカヤロー!……」