睡蓮の書 一、太陽の章
上・女神の憂い・2、大蛇
「待ちなさいラア、まだ話が」
ヒキイの声を尻目に、ラアは部屋を飛び出す。
と、中庭を挟む巨柱の廊下を行く女神の姿をとらえ、駆けよった。
「あれ、カナス?」
ラアの声に立ち止まり、女神が振り向く。
やっぱりカナスだ。ラアは目をしばたいた。そうしたくなるくらい、カナスはいつもと違う雰囲気だった。
いつもは、朱色の衣を巻きつけるようにして、腰帯で止めるだけの簡素な服を着ているのに。
今、彼女を包むのは、白。足首までを覆う白。その上に重ねて、ひだをつけた薄手の衣にゆったりと袖を通し、紅で染めた帯でとめている。
それだけではない。邪魔だからと、ほとんど飾りをつけない彼女が、首元を金で飾ってまでいる。金の飾りは他の女神たちに比べればずっと質素なものだったが、カナスの普段の服装を考えれば、かなり特別な装いに映った。
褐色の肌に重ねた白が、沈みかけの陽が生む淡い影の中に浮かび上がる様子は、どこか幻想的で、いつもは見せない、女性らしい美を思わせた。
「どうしたの、今日はなんだかいつもと違うね?」
いつも綺麗だけど、いつもより、もっと。
少しどきどきしながら尋ねると、後ろから現れたヒキイが代わりに答えた。
「カナスは今日、人間界に降りるのですよ」
「えっ、この前行ったばかりだよね?」
カナスは「技神セクメト」の務めとして、月に一度、南の神殿から人間界へ降りる。それは、北神の力の影響を見極め、それを牽制する意味をもっていた。
けれど、いつもは昼に出かけるのに、今はもう夕方。それに、服装だっていつもと違う。なんだか特別な用事に見える。
「ちょっと、私用で」
答えたカナスの瞳は、やっぱりいつもと同じ。凛として開かれる、強い瞳。どんな飾りにも勝る、彼女らしい美しさ。
「そっか。カナス、すっごく綺麗だよ!」
変わらない色に安堵するように、ラアは笑った。
カナスはいつもどおり、その言葉に何か返すでもなく、ただ一度、その長いまつげを瞬いてみせ、それからきびすを返した。
「時間がないから、行くわ」
颯爽《さっそう》と歩む背に、黒髪が揺れる。
それを見送りながら、ラアはふと、南にいる友人の言葉を思い出した。
?最近、人間界で北の動きが活発になっているらしいんです?
少し不安に思って、小さくなるその後姿に声を上げる。
「カナス、気をつけてね!」
答える声はない。そのままカナスの姿は列柱室の影にまぎれ、見えなくなってしまった。
*
南の神殿から通じているもうひとつの世界――人間界。
そこはまるで鏡に映したように、神々の世界と同じ。一本の大河が地を潤し、水辺には動植物があふれ、その東西は砂漠。
ただひとつ違うのは、そこには人間と呼ばれる、神々と姿かたちの似た生物が存在するということだった。
人間達は、世界の秩序に大きな影響を及ぼす存在を恐れ、祀り、庇護を呼びかける。神々の中には、それに応えようとするものもあった。
カナスが今夜、この人間界へやってきたのも、そういった神々の中に、彼女の知人――織をつかさどる母娘女神――がいるからだ。
本当は、行くのをやめさせたかった。
北神は二年ほど前から、人間界に確かな、それも威圧的な力を敷き始めた。それが最近になって特に、影響を強めていると感じていた。
身に危険が及ぶかもしれない。しかしその女神は、何があってもこれだけはと、聞き入れなかったのだ。
身を案じて待つくらいなら、同行し、もしものときの力になりたい。それはカナスらしい選択だった。
(少し、動きにくいわ)
共に降りるなら、祭りの夜なのだからと、彼女たちはカナスのために一着、美しい白のドレスを織り上げた。目的に適わないからと一度断ったのだが、西の友人らに強引に押し付けられたのだった。
(何も起こらなければいいけれど)
祭りの喧騒をすこし遠くに聞いて、カナスは一帯を見渡せる、岩壁に近い砂漠の地に立っていた。
このあたりは風が強い。北側の狭い谷間を抜けて流れ込むうえ、後ろにそびえる石灰質の岩壁にぶつかって、複雑な動きを作るためだ。
それは低く、ときに高く音を響かせ、カナスの黒髪をあおる。
夜の闇。冷たく吹き付ける風。
楽の音、揺らめく炎。たくさんの人影。
(……!)
そのとき、強く風が吹きつけたかと思うと、瞬時に黄土の膜が視界を遮った。
砂嵐――もちろん、自然のものではない。
あっという間に、数歩先も定かでなくなる。灯し火がかき消され、混乱のうちにある人間らを守ろうと、母娘女神は力を合わせて砂の侵入を防ぐ。
カナスは気配を頼りに地を駆けた。
砂の膜の向こうに、立ち上がる巨大な?影?。その奥に覗く大きな眼球をとらえた娘女神は、瞬間、一筋の閃光に目を貫かれていた。
少女の悲鳴が上がる。カナスは地を蹴った。
白い亜麻の薄布が漂う砂のうちをひるがえる。天をとどろく雷鳴に似た咆哮に次いで、猛り狂い地を揺るがす体躯が視界を覆う砂を払い、そびえる影がその姿を現した。
巨大な蛇――それは鱗ひとつが大人の手のひらほどもある、赤い砂漠の地と同じ色をした蛇。
その左目に、カナスの槍がまっすぐに突き刺さっていた。
槍がその黄金を煌かせたかと思うと、抜き去り跳躍するカナスを、闇色に染まる大蛇の血液が筋を描いて追いかける。
その光景は、戦いの女神たるセクメトにふさわしく、美しく人をひきつけながら、身を震わすほどの畏怖を抱かせた。
闇の中を、白い衣がはためく。
残された右目でそれをとらえた大蛇は、大きくうねると、その巨体からは想像できないほどの速さで牙をむき襲い掛かった。
人間たちはもちろん、母娘女神らも、赤い大蛇の尾が打つたび波打ち震える大地に、もはや立つこともできない。
その目の前で、カナスは襲い来る大蛇の牙を軽々と避け、息つく間もなく浴びせられる攻撃をまるで舞うように退けていった。
人間の目から見れば脅威の化け物も、カナスにとっては単に大きくなった蛇。その動きは脊椎動物がもつ法則を外れることはなく、大きいだけにその隙も広く生み出される。どれほどの勢いをもって襲い掛かろうとも、素早さを象徴するこの女神に通用するはずもない。
払い潰そうと打ちつける尾や胴の一部を足がかりに、カナスは大蛇の顔の高さまで跳躍し、金の槍を振り下ろす。
ゆらりと光を帯びかけた目が、ただ小さな針の一突きで、ぴたり、と。
まるで時間をも止めてしまったかのように、一切の動きを止めた。
瞳は輝きを失い石となって、また赤茶の胴体はそれの生み出された砂漠の砂と同じものに戻り、形を忘れ、地に向かい落ちる。
そうして砂となった大蛇の体は、風に散らされ、その姿を自然に返し去った。
声もなく、ただ吹きつける風の音だけが響く。
静まり返る人間たちのもとへ、遅れて地に降り立った女神カナスが、自身の槍を拾い上げ歩み寄る。
人間たちは無言で女神の通る道を開いた。その先には、娘ソークを抱きかかえる母女神の姿。
カナスは痛みにその目を覆うソークの手を、優しく解いた。ソークの衣は、多少の乱れはあるものの、血の染みひとつ見られない。直接攻撃を受けたわけではないのだろう。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき