睡蓮の書 一、太陽の章
現れた北神、風属の長の力は技神の矢に勢いを加え、そのいくつかがヒキイに傷を負わせる。その力はキレスにまで及び、キレスは結界の役割をもつ膜を張ることでそれを防いでいた。地下部分を捜索する力が削がれ、苛立ちが募るその中で、キレスはついに、地上部からラアの力を捉えたのだ。
ヒキイはキレスの傍まで素早く退き、抑えていた力を解き放つ。目を碧く象る輝神の紋――その瞬間、視界の及ぶ限りが白の光に満たされた。
輝神のもっとも特徴的な力、視力を奪う光。西の女神の眼を変化させたものと同じ攻撃的な力は、より広く、持続する。そうしてヒキイは、キレスの力によってその場から姿を消し去った。
……次に現れたのは、北の神殿西部の上空だった。キレスの生み出した透明な膜の中に浮かぶように、北の神殿を見下ろしている。
水上の神殿は、白く四角い部屋がいくつも、細いつなぎ廊下で結ばれている。そのうち、ちょうど真下にある天上の開いた部屋から、光が漏れている。光を生む少年――確かに、ラアだった。
「ラア!」
ヒキイが声を上げる。しかし、キレスの作り出した膜の中では、声は届かないようだった。
「どうすんだよ。結界、かなり強いぞ」
「突き抜けます」
「ちょっと待てって! ……あんた無茶だなあ」
まっすぐラアの姿を捉えたままのヒキイは、止めなければ本当にこのまま結界に飛び込みそうだった。キレスは自身の作り出した膜の中で身をかがめて、結界に向けて腕を伸ばす。少しの範囲なら、結界の力を削ることができると考えたためだ。実際、人一人分の範囲が僅かに強度を落とし始めたが、硬い岩を小石で砕くような根気が必要と思われた。
その力に気付いてか、ラアが上空を見上げた。そして驚いたふうに、ヒキイの名を呼んだようだった。彼を包む光が収まる。
ヒキイがそれに応えようとしたとき、二人を追って北の風神が現れた。神殿内の異変に気付いたのだろう。北神は次第に数を増し、次々と放たれる力がキレスらを包む膜をすり減らす。
「わたしを外へ!」
ヒキイが叫ぶ。風の力が再び大気を駆け、さらに膜を激しく磨耗した。
キレスは焦っていた。これほどの敵の攻撃を受ければ、膜が破られるのも時間の問題だ。けれどいま膜を解けば、ヒキイはこれらの攻撃にさらされるだけでなく、神殿を覆う結界にその身ごと飛び込むに違いない。一部の強度を落としたとはいえ、それはほんの僅か。外敵を阻もうとする結界の力に、無事ではすまないだろう。
神殿の結界への影響に危機感を募らせ、ついに生命神の側近の一人プタハがそこに現れた。その目縁に浮かびあがる紋に、ヒキイは同格の神の存在をはっきりと悟る。
「早く!!」
貫くようなヒキイの声。ほとんど反射的に、身を包む膜を消し去ったキレスは、直後、目を突き刺すような光と同時に彼の身を襲った激しい衝撃に、かばう間もなく宙に弾かれた。
結界の抵抗力は想像以上に大きかった。地へ下る雷が大木を引き裂くような破壊音がとどろく。
ヒキイは体を彼自身の力で包み、ねじ込むようにして結界を貫こうとしていた。結界の強固な状態維持力がそれに激しく抵抗し、ふたつの強大なエネルギーの衝突は光とともにその衝撃の波動をあたりに広げる。それは北神らのすべての攻撃を呑み込み、北神プタハの放った奪視の光をもかき消した。
激しい力の衝突の中心にあるヒキイ。ラアに向かって差し出された腕の皮膚が、結界と接するその先から錆びた金属のようにボロボロと剥がれてゆく。その表情は苦痛にゆがんでいた。
「ヒキイ……っ!!」
ラアが悲鳴を上げる。開くことも困難な目でヒキイの姿を捉える。目を背けたくなるような姿に、けれど背けることのないよう必死に――目でつかまえていないと、一瞬ですべてバラバラに果ててしまうような気がした。
大きな力にさらされた小さな池は、波立ち飛沫を上げ、睡蓮は荒波に浮かぶ小船のように波にもてあそばれていた。切り取られた天に映る地獄のような光景を見上げ、小さな精霊はひどくおびえた様子でラアの衣服を握りしめる。
そしてあの白い光の帯が、ラアを包み始めた。自分を、そして姉をここへと連れてきた“力”。
「ダメだよ……っ、ヒキイが……!」
だがその言葉は精霊に伝わることなく、光の帯はさらに重なってゆく。
ラアはその力から逃れるように地を蹴り、風を身にまとう。精霊もまた、振り落とされないよう必死にしがみついていた。――光の帯はラアを包んで離れない。
ヒキイの片腕、それだけがついに結界を抜けた。ラアがその腕を伸ばす。ヒキイの、朽ちた腕の先端に触れた――瞬間、つぼみを閉じるように白い光がすぼまる。
一瞬後、敵の完全な侵入を阻もうとプタハが部屋に姿を移したとき、その場には、池の水が散る床に横たわる女がただひとり、残されているだけだった。
*
「騒がしいな」
暗闇の中にただひとつ灯る紺青。球体をしたそれを両手に包むように浮かべた青年が、いま目覚めたばかりのように呼吸を整え、声をした。
地下深く、重厚な扉を隔てた奥に位置するこの空間にあっても、地上の結界への衝撃ははっきりと伝わる。重要な儀式を中断されてしまった。青年は目を閉じたまま眉根に皺をひとつ刻むと、聖杖を手にすうと立ち上がった。
しかし、次の行動をとどまらせる変化がその場に生じる。閉じられたこの空間に、突然ある気配が現れたのだ。
「ホテアか……――」
重なる光の帯を目に映すこともなく、男はつぶやく。……しかしすぐに異変に気付いた。
彼の精霊の他に、素性の知れない気配。
はっと身を張り杖を握ると、男は今現れたばかりの精霊を抱き寄せ、咄嗟に結界を張った。
精霊と共に、突然そこに現れた存在。その“力”の膨張を感じる。急激に、そして信じられないほどの大きさに膨れ上がるそれは、ひとりが持ち得る力の限界をすっかり超え、今もなお膨張し続ける。
これは、なんだ――? まるでこれは、人ではない。
別空間がぽっかりと口をあけ、そこから闇が湧き出ているかのよう。
それだけではなかった。彼が儀式に用いた紺青の光を帯びた球体が、心臓の動きに似たその瞬きを急速に早める。まるで、膨張する力に呼応するように。
小さな精霊が望み、この地下の空間へと連れた存在。けれどその変貌振りに、精霊はそれが自身の求めたものと同じであるとは気付かなかった。精霊はただ、主の手の中でがくがくと震えているばかりだった。
精霊は闇に浮かぶ金の眼光を見た。――それはまるで、異界の闇に住まうもの。恐怖を知らしめ生を貪り食らう、魔物。それを思わせるような、禍々しさをまとう。
精霊の主である青年は、強い警戒に身を固め、聖杖を握る。この怪異な存在を消し去らねばならない、脳ははっきりと警笛を鳴らしている。……しかしそれでも、身体は縛られたように動かなかった。
膨張する力に、その質の異様さに、まるで成す術がなかった。
抗うことの出来ない、絶対的な力の存在。
それは、生を喰らう“死”の力――。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき