睡蓮の書 一、太陽の章
下・花の精霊・1、即位
耳元でカチカチなっていた音が、両手の中に静かに納まった。
ラアはそれを、しみじみと見つめてみる。
五年間ずっと耳を飾っていた、二つの輪飾りとも、今日でお別れだ。
生まれてから十五回目の「恵み満つ時」。ついに、この日を迎えてしまった。ひと月前のあの日から、結局、カムアに会うことはなかった。後悔をしたり、ぐじぐじ考えるのは好きじゃない。ラアはこの一ヶ月、覚えなければならない新しいことに、必死で目を向け、半年前までと同じに過ごしていた。
もちろん、すっかり忘れてしまったというわけではなかった。出会ってたった五ヶ月間、一緒に過ごしたのは、そんなにたくさんの時間ではなかったけれど――大切なものを作るのはきっと、時間の量ではないのだろう。カムアがいなくなってぽっかり空いてしまったところは、いまさら別のもので埋め替えることなどできなかった。
ただ何か考えたり、動いたりしていないと、胸の奥のほうからじわじわと何かが湧き出すから、それに向き合うのが怖くて、ラアはわざと忙しくしていた。そのお蔭で、今日の即位式のごちゃごちゃした手順も、完璧に覚えられた。
清めの儀式、宣誓、それから神権授与に称号授与、各神殿代表と属性長の臣従宣誓、そして最後に、この神殿の結界を新しくすること。
頭の中で一連の流れを確認してから、ラアはため息をついた。
「面倒くさいなあ……」
しきたりとか、形式みたいなのは、好きじゃない。王になるというだけで、どうしてあれこれやらなければならないことがあるのか。五年前も、この耳に輪をつけるためだけに、色々やらなくちゃいけないことがあった。けれど、今回はその倍以上はある。
「面倒だから、“王になんてならなくていい”?」
傍にいたケオルが、意地悪く笑って言う。最近ラアがよく口にしていた言葉だった。もちろん、本気で言っていたわけじゃない。ラアは唇を尖らせた。
「清めとか、だって、ちゃんと毎日池に入ってるもん。おれ、香油のすごい匂いとか、ベタベタするの、嫌なんだ。こんなことして、意味あるのかなあ」
「気に入らなければ、変えればいいじゃないですか」
ケオルがなんでもないことのようにさらりと言ってしまうので、ラアは思わず丸めた目でみつめ返した。たしなめられるとばかり思っていた。ヒキイだったら、絶対こんなことは言わないだろう。
「王になるということは、そういうことでしょう? あなたの一存で、そのくらい容易ですよ。反対があったとしても、押し切れる数でしょうね。今こちら側の神々は、それこそ数えるほどしかいませんし」
ラアの目が輝く。変える力があるというのは、なんと魅力的な響きだろう。
「いいのかな? そんなことして」
「いいかどうかは、自分で見定めるしかないですね。あなたが本当に無意味だと思うなら、そうしたらいい。ただ、これまで長く続けてきたことを否定するには、それなりの理由が要りますよ。俺には……」パピルスの巻物をぽんぽんと手に打つケオルの視線が、ラアから外れる。「実際に無意味かどうか、分かりませんから」
その目線を追うように、ラアは後ろを振り向いた。
この控えの間の裏に、謁見の間がある。即位式の式場。そこに、複数の人の気配を感じる。
式には、北を除く各神殿の代表と、そして、各属性の長となる神々が参列することになっているから、ヤナセやホリカ、それからシエンも、来ているだろう。
ちょっとわがままを言ったかな、と思った。みんな、その面倒くさい儀式のために、わざわざ来てくれているのだ。
もし、要らないと思ったら、本当に変えるのもいいかもしれない。とにかくケオルの言うように、やってみないと無意味かどうか分からない。やってみるしかないんだ。
「おや、ラア、着替えはまだ終わっていないのですか?」
ヒキイが様子を見に来た。声をかけてから、ケオルと何か話している。
ラアはテーブルの上に広げられた、ビーズの飾りを見下ろす。肩から胸にかけて、ぐるりと飾る半円型の胸飾りと、魚のうろこをつなげたようなビーズのネット。服を飾るそれは、青い青い天空の色。ヒキイがそう言った。
キラキラ光る飾りを見つめて、あの夜のことを思い出す。そうだ、月属の長である月神キレスも、今日、やって来ているはずだ。
あれから学習の時間に何度か、月属とはどういうものか聞いた。実は、ケオルたち知属の神々にも、その力がどういったものなのかまだよく分からず、研究中であるという。
キレスの神位「月神アンプ」は、千年前の戦の後、これまで一度も現れていなかった。それが、このたび突然、「再生」したと言われている。
ヒキイから聞いたことがある。自分の治世は、これまでとは違うのだと。
なぜ、千年経った今この神位が再び現われるのか。――その理由は、まだ分からない。しかし、おのずと見えてくることだろう。
……嗅ぎ慣れない香りに、われに返る。ケオルが謁見の間に入り、空気が流れ込んできたのだろう。少し顔をしかめると、胸飾りを手にとって、ヒキイが顔を覗き込んだ。
「不安ですか?」
あわてて首を振る。けれど、言われて気づいた。少し、緊張していた。
「大丈夫ですよ、ラア。あなたなら」
幅の広いビーズが首まわりにあてられる。ひんやりした感触が、凝り固まった気持ちを静かにほぐしていく。
「五年間、よくがんばってきましたね」
胸からひざまでを包む衣服を青いビーズが飾る。光の加減で、一つ一つのかけらが瞬くように輝く。少し動くたびに、ちりちり小さな音が重なる。その空色に、心が澄んでいくように感じた。
「さあ、最後の仕上げですよ」
ヒキイの優しい微笑が、自信を支える。前を見て、ただ前だけを見て進めばいい。
促されるままに、ラアは足を踏み出した。
控えの間は、謁見の間の王座の後ろに接している。
小さいころ見たのとは違って、真昼だというのに、そこは薄暗かった。部屋には香が焚かれ、影の色を白く覆っている。天井の明かり取りが塞がれていて、隙間から漏れるわずかな光が、左右に立ち並ぶ柱と、参列者の輪郭を知らせる。
西の代表者、天空神ホリカ。その弟で地属の長、大地神シエン。東の代表者で風属の長、風神ヤナセ。その妻は、長ではないけれど、いま太陽神側にある水属の神々のうち最も高位にある女神、医神のヒスカ。それから紅い瞳をした人は、初めて見るけれど、火属の長に違いない。そして――あの夜にやってきた、月属の長、月神キレス。
男神が片膝を、女神が両膝を地につけ、新たな王を迎える。はっきりと見えないはずなのに、キレスの、あの透き通った紫の瞳が、白く濁った影の向こうから、こちらをじっと見つめているように感じて、ラアはごくりと唾を呑んだ。
たち込める香の匂い。耳や目からも侵入しているのかというくらい、鼻の奥がすぐにその香りでいっぱいになる。なにかの書を読み上げるケオルの声は抑揚なく、ほとんど絶え間なく続けられる。それを聞くともなしに聞いていると、香りと、そしてこの薄暗さのせいだろうか、眠いような、なんだかふわふわした心地になった。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき