睡蓮の書 一、太陽の章
とろんと瞼を半分かけたまま、玉座の前に進んだラアは、太陽神補佐であるヒキイの前でひざを折る。つい先ほどまで、式の順番や内容をきちんと覚えていたはずなのに、ラアはこのとき、四柱の神々が彼を囲むように立ったことを、まったく意識できなかった。
清めの儀式は、四つの基本属性の長かそれに次ぐ位の者から、新たに即位する王が香油によって清められるというものだった。金の器に入った香油をラアの頭上に掲げ、一人ずつ香油を注ぐのだ。
はじめに注いだのがヤナセであったことさえ、ラアは気づかなかった。いつもなら、知っている相手を意識しないことなんてあるはずがない。苦手な香油の感触に身を固めて精一杯我慢していた――わけではなかった。そのとき、ラアは自分の存在が、まるではっきりしないものになってしまっているように感じていた。ぼんやりと、光とも闇ともつかない場所に、ひとり曖昧に浮かんでいるような、不思議な心地。
視覚、聴覚、臭覚を鈍らせて、ただ香油が髪の間を滑り落ちて頭皮に届くことだけを感じていると、突然、混沌としていた意識の奥が押し広げられるように開いていく。
湧き上がり、細い糸の束のようになって体を包むもの。生まれ出たそれは、形なくどこまでも自由に広がる――風の力。
胸のずっと奥深くにある芯が、熱を帯び、燃え広がるもの。身体を超えて溢れ、触れるものすべてに伝える――火の力。
遠から近へ、近から遠へ、めぐりめぐる流れ。すみずみまで満ちた波紋が、ゆっくりと静かに均されてゆく――水の力。
この手に触れるもの、その形を知らせるもの。足下に立ち上がり、目に見えるすべてを確かに存在させる――地の力。
世界の始まりに、混沌から四つの力が生まれ出たそのときのように、ラアの身体の内側で彼の小さな“世界”を満ち、隙間なく重なり合って、やがて大きく渦を巻く。
はっきりと開かれたラアの瞳に、黄金が満ちる。
感覚だけだったものが実体化し、ラアの身体を包むように目に見えない力が急速に渦を巻く。香油を注いだ四柱の神々が、彼の突然の変化に身を引くと、ケオルの声が途切れ、ヒキイが大きく目を見開く。
香煙の白い筋はラアの力に引き寄せ散らされる。がたがたと音を立て、明かり取りを塞いでいた木の板が取り払われた。
そしてラアが立ち上がった途端、その身体を包んでいた力の渦が爆発するように天に向かって放たれた。
音は一度だけ、天から大きな膜が破裂するような高い音。この神殿を取り囲んでいた不可視の結界が破られた音だった。
ラアは一度すっと息を吸った。香油とともに注がれた四つの力が、今までなんとなく用いていた力に形を与え、鮮やかな色をもって象っていく。
あふれ出る。止まらない。
「太陽神ラア・ホルアクティ――地平線上に輝けるもの」
広く知らしめるように声を上げた太陽神補佐ヒキイが、両手を前に差し出すと、そのうちに一杖のつえが生じる。
神権を現す、聖杖。
ヒキイが差し出した杖を、ラアは無意識に握っていた。
天を仰ぐ。この大きな神殿を包み込む結界をどう作ればよいのか。四つの力を、どう織り交ぜていけばいいのか。誰に教えられなくとも、ラアには今、はっきりと見えていた。初めて用いる、広範囲に及ぶ術にも、何の不安もない。それは今までのような、漠然とした自信とは違う。確信だった。
ほとばしる光。その一瞬すべての色が取り払われ、光の白のうちに、黒い影が刻まれる。その場にいた神々がまぶしさに目を閉じると、その肌を熱が焦がす。しかしどれもがほんのひと時のことだった。
強大な力の融合に反応しあって光を生んだ後、その力は綺麗に編みこまれた布のようにしっかりと結びついて安定し、頭上高くを広く覆った。その“力”が存在していることを、ほとんどの者がはっきりと感じていた。
ラアによって結界が新たに生み出された。即位式で行うべきものではあったが、はじめに伝えられた手順を一切無視したこの状況に、神々は戸惑っていた。
ところが、ひとつの力がこの混乱のなかにある沈黙をうち破った。風神ヤナセが、自らの杖を握り力を示すと、ラアの生み出した結界に彼自身の力を加え、結界を完成に近づけたのだ。
シエンがためらいなくそれに続く。そうして、それに応じて炎神が、また同時に、水属の女神が戸惑いながらも、それぞれの力を加える。四属の神々の力が、結界を補強した。
それからシエンが、月神キレスを促すように一瞥すると、ひとりまるで関係ないというように事を眺めていた彼も、応じないわけにはいかなくなったのか、聖杖をその手に現した。
キレスの長い黒髪が広がる。それは背後であったのに、ラアはびくりと反応した。呑まれまいと意識を集中していると、以前は気づかなかったあることに気づいた。
月神であるキレスの力は、彼自身から生まれるのではなく、外にあるものを強く引きつける、そんな力だった。……そういえば同じ月属の、カムアの力も、ラア自身が始めに聞いた声そのままに、どこか引き寄せようとするものだった。こんなふうに、逆らわせまいとするような威圧感は、ないけれど。
そうして、頑丈な布を幾重にもかさねたその上に、強固なガラスの膜を張るように、月神の力が加えられると、結界の生成は完了する。ラアが自身をまとう力を解くと、ぴんと張った糸が緩むように、その場の神々がほっと息をついた。
力を解いた後も、ラアはじっと天井を――その向こうにある、自ら生み出した結界を、見上げていた。
大きな力だった。昨日までの自分なら、きっと精根尽きてへたれ込んでしまっていただろう。けれど不思議なことに、ラアは今、疲れを感じていなかった。外側から流れ込み、自らのうちにあるものを膨張させたもの。それらは収縮する様子もなく、今も満ちている。
王だとか、そういう肩書きを超えて、この力は確かに自分のもの、自分だけのものだと感じた。
心配することなどなかった。ずっと求めていた力は、求めていた場所にあった。
歓喜の思いが湧き上がる。ラアは吸い付くように手になじむ自身の聖杖を、強く握り締めていた。
ヒキイは、ほうと息をついた。式の手順がすっかり狂ってしまったことなど、いまの彼の心を微塵も占めていなかった。その瞳に、天を仰ぐラアの姿を映す。
太陽神補佐に抜擢され、ここ中央にやってきたころ、ラアはまだやっと赤子を卒業したばかりだった。王位の継承者という立場から半ば世間より隠されていたラアは、母親もなく、乳母は体が丈夫とはいえず、父は当然忙しく、姉もそれに従っていたため、年長者が関心をもって接する機会が少ない様子だった。悪戯好きで人懐こく、人見知りのない、愛らしい子供。自分がここに呼ばれたのは、この幼い王子を守り育てることなのだと、ヒキイはすぐに理解した。
先代の王、ラアの父は、歴代の王の中でも随一といえる聡明さをもち、困難の時代を切り抜け、人望も厚かった。しかし、ひとつ、力という点で歴代に遅れをとったことを、生涯悔やみ続けた。その王が、この幼い王子の秘める力を知ると同時に、未来を託したのは当然とも思えた。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき