睡蓮の書 一、太陽の章
「……そうして、はじめの王ウシルは死者の国ドゥアトを治めることになり、この地の統治を力ある別の神に委ねます。それが、太陽神ホルアクティであり、彼ははじめの王ウシルの息子でした。
よって太陽神ホルアクティの王権は、原初の創造神……すなわち火のペテハ、水のケネムウ、風のアメン、地のトゥムらによって承認されたはじめの王の、意志と力を継ぐ正統なものとされ――」
部屋に響くケオルの声が、どこか遠い。流暢に並べたてられる言葉は、まるでたくさんの樹の葉擦れのよう。
涼しい木陰、差し込む木漏れ日。そこでカムアとすごした時間。毎日――そう、毎日だ。三日前まで同じだった。ずっと続くと信じていたのに……。
「聞いてますか? ホルアクティ神」
はっと我に返る。それを確認して、ケオルはまた続けた。
ケオルは自分を名前で呼んでくれない。個人の名称はその人の本質を表すもので、言葉を力に変える知属にとってそれは特別な意味を持つから、王を名前で呼ぶわけにいかないとか、難しいことを言っていた。
知属は力がないというイメージしかなかったラアは、「知」の字の通りに彼らが知的探究に生涯をささげる誓いをしたものだと聞かされ、なるほどと思った。話してみると、ケオルは本当にたくさんのことを知っているのだ。
この学習の時間でも、なにか大切な話をするとき、ヒキイは決まってパピルスの書物を読んでいたのに、ケオルはほとんど何も見ないで話す。何も見ないから、その目はいつもこちらを向いていて、聞いていないとさっきみたいにすぐバレる。しかも怒られたりする。ちょっと、厳しい。カナスがよく、ヒキイを甘い甘いと言っていたけれど、本当にそうなのかもしれない。
厳しいばかりでなく、面白い話だってしてくれる。昨日の午前中も、書物室にいるところを捕まえて、たくさん話をした。たとえば彼は、これまで東に住んでいたけれど、その前はしばらく、南にいたらしい。大地神シエンや、月神キレス――夜にやってきた人――とはその頃からの知り合いだという。
南。それを聞いただけで、気持ちが明るくなった。――カムアのいるところだ。
それとなく聞き出してみると、やっぱりカムアの事も知っていた。カムアが修行することになったとき、本当は同じ属性で最高位のキレスが指導すべきなのに、まるで教えられる様子じゃないので、別の人が指導することになったのだと話していた。
ラアはあの夜の、キレスの態度を思い出して、妙に納得した。あの人がカムアを指導していたら、カムアは半年前のあの日、石を退ける術がうまくいかないで、自分と会えなかったかもしれない。そう思うと、とんでもないことだ。
そういえば、カムアはたびたび、彼の指導者の話をすることがあった。カムアはその人のことをすごく尊敬している様子で、いつもどこか眩しそうな目をして、うっとり話すのだ。
その人は南の代表をしていると言ったが、ラアはなかなか思い出せない。
(一昨日、来てたはずなのに……。いつもすぐ帰っちゃうのかな)
もう少し注意して、会いに行っていれば。カムアとも、もっと楽しく話ができたかもしれない。この半年間、5回も、その機会があったはずなのに。
カムアとはいつでも話せるからと、それをあまり気に留めずにいた。――そのことを、後悔する日が来るなんて……。
「……何か気になることでもあるんですか?」
突然、真横で声がして、ラアはひゃっと声を上げる。ケオルが顔を覗き込んでいた。
「もう、びっくりするよ!」
ラアが非難する。と、間近で見るケオルの眼に、あの夜の、キレスの眼が重なり浮かんだ。
こうしてみると、ケオルの眼はあの人のように透き通った感じでない。光が注がなければ、紫色だというのもわからないくらい、普通の、暗い色だ。あの人の眼はもっと澄んでいて、どこかひんやりした印象があった。
――そうだ、ひんやりしていると言えば、カムアの手。あの手が触れると、本当に心地がいい。ほっとして、安らいだ気持ちになる。
カムアはいつも、自分の気付かないことをよく見つけ、教えてくれた。目立たない木の根の出っ張りとか、面白い小石の形とか。気づかなかったと言うと、彼は、
“ラアはいつも、ずっと遠くのほうを見て、僕が今まで気付かなかったたくさんのものを、教えてくれてますよ″
そう言って、あの柔らかな笑みを見せてくれるのだ。
その笑顔は、ラアの心を強くしてくれる。ヒキイや父のそれと違い、すぐ傍で、肩を並べて、そのまま背中を押してくれるよう。本当に、何でもできそうに思えてくる。
ずっと、傍にいてほしいのに。そうでないと、だめなのに。
カムア――もう、会えなくなってしまった。
(どうしたら、よかったんだよ……)
ラアの表情がみるみる沈んでゆく。
ケオルは短く息をつき、今度はもう何も言わなかった。
*
学習の時間は、いつもよりずいぶん早く終わった。
ラアは何もすることがなくて、前庭につづく階段に足を放りだして座ると、なにをともなく眺めていた。
カムアに出会う前は、こういうとき、よく姉の部屋に行っていた。そうすれば、ほんとうはひとりじゃない、大丈夫、そんな気持ちになれた。――でも今日は、姉の部屋に行く気にもなれない。
ほんとうに、なんだかぼんやりしていた。そんな自分に気付けないくらい、からっぽだった。
「ラア」
声をかけられた気がする。意識がどこか遠くをさまよっていたと気付く。ゆっくりと、傍に立つ人を見上げた。
ヒキイだった。いつの間に、ここに立っていたのだろう。
午後の学習を教えなくなって、それでもヒキイは何か忙しそうだった。よく神殿を出ているし、神殿にいても、部屋でないどこかにこもっていたりした。
今日はどうしたんだろう。何か用があるにしては、言葉を続けてこない。ただいつものように、少し困ったような微笑を浮かべている。
「今日、早く終わったんだ」
話すのを待っているような気がしたから、なんとなく、言ってみた。ヒキイは、ゆっくりとうなずく。けれどそれ以上、ラアは言葉を続けられなかった。
思わずふうっとため息がでる。ラアは、ちょっと疲れたと言ってみた。それも嘘ではなかった。
ゆっくりと、ヒキイが体をかがめて、ラアの隣に座った。正面から照る陽は、少しオレンジがかってきたけれど、まだぎらぎらしてる。でも、ヒキイの体を包む丈の長い真っ白な衣服のせいだろうか、少しだけ、ほんの少しだけ涼やかな空気が肌をなでた。
「なんか、変わっちゃうね……」
ぽつんと、言葉がもれた。なにを期待して言ったのか、自分でも分からない。ただ、そう思った。
ヒキイは無言で、ラアの頭を撫でた。陽の熱のこもるぼさぼさの頭を、大きな手が覆う。その重み、ぬくもり。
腕の陰から、ヒキイの顔をのぞいた。すこし切れ長の目。いつも優しく注がれる眼差し。ずっと、ずっとそばにあって、変わらないもの。
とつぜん、ひざの上に何かが染みた。ぽたり、ぽたりと音を立てる。
なにがなんだか分からなくなった。くしゃりと顔をゆがめる。もう、涙は止まらなかった。
……何が変わったのだろう。
自分は何も変わってなどいないのに。まわりが、確実に変わっていく。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき