睡蓮の書 一、太陽の章
中・かがやき・2、夜の訪問者
カムアは今日も少し、元気がなさそうだった。
けれどこちらに気付くと、いつものように嬉しそうに笑って迎えてくれる。それだけで、ラアの心配は消し飛んだ。
「昨晩、人間界で北神と争いがあったって……。今、シエンさんが、中央に行ってるんです」
元気がなかったのは、そのせいだろうか。
人間界へ向かうには南の神殿を通るのだから、カムアがそれを知っていることに不思議はない。けれど、ラアがシエンと一緒にいたことは、知らないはずだ。シエンが、うまくやってくれたから。
〔そっかあ、大変だね〕
ラアはまるで知らないふりをして言う。
「中央。――どんなところ、なんでしょうね」
カムアが独り言のように言った。
ラアは教えてあげたかった。天井の高い立派な建物、立ち並ぶ巨大な柱、美しい庭園の花々。そこでカムアと一緒に過ごせたら、どんなに楽しいだろう。
胸がギュッと苦しくなる。隠し事は、好きじゃない。けれど、しょうがないんだ。
気持ちを紛らわすように、ラアは天を仰いだ。目に映るのは青空ではなく、木々の緑葉。ここ南の森は、中央にある木のように、整えられ等間隔に並べられているのと違う。自由に、のびのびと枝を伸ばす木々は、緑の色もずっと濃く、影も深い。ラアにはまだはっきり分からないが、ずいぶん広範囲に広がっているようで、向こうがまったく見えない。
太陽の恵み多きこの地は、南にゆけばそれだけ乾燥していて、あまり木々が密生することがない。そこへこれほどの森を作り出すことは、簡単ではないだろうと、ラアでも分かった。
この森を管理しているのは、しかしシエンではなく、同じ地属の、彼よりひとつ位が下の神であるという。つまりシエンはそれよりも、もっと大きな力を持っているというのだ。
〔やっぱりシエンって、強いの?〕
突然ラアが尋ねたので、カムアは目をぱちぱち瞬いた。
「それは……、地属の長ですから……」
〔じゃあどうして、倒さないんだろう〕
北の力はそんなに強いのだろうか。単純な疑問に、どこか納得のいかないという気持ちを混ぜて、ラアは思わずつぶやいた。
するとカムアは少し黙って、何かに思いを巡らすように顔をうつむけると、
「シエンさんは、あまり争いたくないんじゃないでしょうか……」
〔え……?〕思いもよらない言葉だった。ラアは目を大きく見開き尋ねる。〔どうして? 敵なんだよ?〕
「そうですけど」そう言ってから、カムアは少し困ったように首をかしげる。「でも、できるだけ会わないように降りてるみたいですよ」
〔なんで? 強いんでしょ、戦ったら、勝てるかもしれないのに〕
「勝てるかもしれない……でも」カムアは考え考え、言葉をつむぐ。「扱う力が大きいからこそ、人間界で争うと、人間たちが巻き込まれてしまうから……」
〔そんなの――〕
関係ない、と言いかけて、はっとした。
十年前、神々の戦の影響で荒れた人間界。それに巻き込まれて、姉は、目を覚まさなくなってしまったのだ。
それに、力を用いて人間界を荒らす北神を、制するためにと、人間界で大きな力を使ったら。結局そのために人間界は荒れる。それでは意味がないと言われれば、そうかもしれない。
(でも、分からない……)
負の影響を与える一つを消し去るためには、いくらか犠牲があっても仕方ないのではないか。ラアはそう考えていた。
(だって、ほうっておけば、何度だって現れるんだ。そうしたら、どんどん犠牲が増えるだけなのに)
このままじゃいけない。このままじゃ……。
ラアの胸の奥に、ちかりと火が灯る。無意識に起こした風が、身体をぐるりと巻き上がる。
――と、急に背中がヒヤッとして、ラアはわれに返った。
「ラア。そろそろ時間じゃないですか?」
カムアの手が触れたのだと知る。そういえば、握手したときも、ひんやりして心地よかった。ふうっと北風が頬をなでるような、そうして心をほぐすような、この手が、ラアは、好きなのだ。
今日はヒキイがいないから、午後の学習もない。ラアはもうしばらくカムアと一緒にいたいと思った。しかし、
「今日は僕、このあと用事があって……」
カムアは少し言いにくそうに、そう告げた。灰色の瞳に陰を落として、なんだか少し、寂しそうだ。
ラアはがっかりした。午後に用事があるなんて、初めてだ。自分が午後に用事がないのも初めてだけれど、……うまく、かみ合わない。
用事ってなんだろう。なんとなく気になって、聞きかけたが、カムアの寂しそうな表情を見ていると、言葉にできなかった。いつも隠し事をしている自分が、聞いてはいけないような、そんな気持ちになった。
黒蛇の姿でするすると去るラアの背に、カムアもまた、何か声をかけようとしたのだろう。しかし、開かれた口は音を作ることもなく、そのまま閉じられた。
*
あたりが暗闇に包まれ、ラアもうとうとしかけた頃。
中央神殿を覆う見えない結界が、突然、音もなく震動した。
その微細な動きを感じ取り、ラアは瞬時に跳ね起きると、部屋を飛び出す。
(北神――!?)
結界の一部が何かの力を受けたのだろう、こんな反応は初めてだ。北神が、昨夜の人間界の件で、報復にやってきたのではないか? もしくは、十年前のように、王座を奪う目的で戦がまた始められたのではないか?
中庭まで来ると、その開いた天を見上げる。――結界は無事のようだ。北神の姿は……? 見当たらない。
が、ほっと息をつく前に、神殿の入り口のほうに、何者かの気配を捉えた。
(誰か、来た)
こんな夜中に、一体、誰が。どうやって?
ここ中央神殿は特別守りが堅く、許可を得たもの以外が神殿に立ち入るには、内側から門を開いてもらうしかない。いつもはヒキイが開くが、彼はまだ戻っていない。何より、ただ門を開くのに、結界がこんな反応をするはずがないのだ。
ラアは意識を集中させる。前庭の辺りに、確かに誰かいるようだ。それはゆっくりとこちらへ近づいてくる。捉えたことのないこの感じ――心臓が早鐘を打つ。
暗闇の中、微かに鈴のような音がした。気配が近づくにつれ、はっきりと聞こえてくるその音が、ラアの不安を煽る。
そうして、しばらく……、月影が整然と並べられたタイルを蒼く照らす、中庭のむこう側、列柱の闇の中から、それはついにその輪郭を現した。
細い体躯に、腰の下まで垂れた長い髪。ラアははじめ、それは女神だろうと思った。けれど階段に差し掛かり、月明かりの下に現れたとき初めて、そのはだけた胸から、男性であることが分かった。
その人は、襟飾りはもちろんのこと、腕や足首、露出した褐色の肌のいたるところに金や貴石の飾りをつけ、月明かりをちらちらと照らし返している。それらが、歩くたびしゃらん、しゃらんと涼やかな音を立てていた。
ふと、音が止む。ラアに気付いたのだろう、じっとこちらを捉えている。
ラアが何か言おうと口を開きかけたその途端、男はぱっと姿を消してしまった。
「!?」
驚き瞬いている間に、その人はラアのすぐ目の前に現れる。あまりに唐突で、ラアは思わず仰け反った。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき