睡蓮の書 一、太陽の章
「……俺でよければ」
シエンの返答に安堵したふうに笑んで、ヒキイは彼の代わりカナスを支える。
「いいですね、ラア。決して危険な行動を起こさないように」
こくんとうなずくのを見とめてから、ヒキイはその場で二人を見送った。
「ヒキイ……」
カナスは戸惑いを混ぜて声する。意外だった。いつもラアの身を案じ、過保護に思えるほど大切に扱っていた彼が、このように思い切った決断をするとは。
遠く目をはせ、少し息をつくと、ヒキイはまた、いつものように笑みを浮かべて言った。
「いいんですよ。もうひと月で王となる身。確かに、そうしていい頃です」
*
人間界の夜は、ラアにとって、初めてではなかった。
十年前、戦火を逃れて訪れたのが、ここ人間界だったから。
そのときはヒキイと、そして、姉も一緒だった。
地を走る風は、もっと強くて、冷たく耳をふさいでいた。
湧き出す弱い気持ちは、それと気づく前にバラバラに吹き飛んだ。
目の前のことで精一杯だった、あの時。
――けれど今日この夜は、なんて静かなんだろう。
大気を漂っていた砂は晴れ、空は瞬く星が無数に増え続けると錯覚するほど、澄んでいるのに、
なぜか、胸がぎゅっと締め付けられる。
ラアは、赤い石礫の大地に立ち尽くしていた。
この安寧な夜におよそ似つかわしくない、大地の亀裂、自然でない突起と、大きな窪み。争いの跡が、生々しくその目に焼きつく。また十年前の記憶を掘り返し、それらが重なる。
心の奥が、ざわざわした。
傍でシエンが膝を折り、大地に手を触れた。足下で地が震え、その大いなる力が広げられるのを感じる。そうしてゆっくりと、彼らの形作った不自然な“跡”は、もとの平坦な地に近づいていった。
少し先に、ちかりと光る何かを見つけ、ラアが駆ける。
それがカナスの槍であると気づくと、足が止まった。カナスの手で誇らしげに輝いたあの黄金が、三つの残骸となって地に横たわるその光景。
……言葉が出なかった。おそるおそる近づく。伸ばした腕が震えていた。
断ち切られた槍を抱えると、あふれる感情を抑えるように息を吸い込んで、空を仰ぐ。
……ここは、なんて寂しい。
ひっそりとした静寂は、木々の憩いの中にあるそれとは違う。
何かを怖れて潜むような。
悲しみを引き出して、慰めもせず、たださらすような。
寂しくて、冷たくて、……苦しい。
ラアは縛り付けるような、その漠然とした不快感を、引き剥がそうとして、思うままに、その気持ちを吐き出した。
ぐっと身体を引き付ける力に振り向いたシエンは、しかし次には、その目を強く閉じなければならなかった。
ラアのその身より放たれる、光の眩しさに。
感情を言葉ではなく、形をもたせて表すことは、ひとつの自然な方法だった。けれど、その光の規模は、個人の感情表現という枠を、すっかり飛び越えているようだった。
地を走り天を染める光は、まるでそこだけ、昼夜が逆転してしまったかのように、
闇の中に沈んでいたそれぞれの姿を、その影の上に現せしめ、
生き生きと色を塗り与え、
暖かささえ、満ち溢れさせた。
――神々の王、太陽神。
生ある喜びを知らせるもの。……その名にふさわしい、力。
小さなこの、少年の身体に。
瞳に映るすべてのものが、鮮やかに、その命を輝かせる光景。
世界は言葉なく、その光を受け入れていた。
……ほんの十秒ほどの“奇跡”が終わると、あたりはまた、単色の闇に沈みこみ、月明かりだけがそれぞれの形を知らせる。
ラアはふと、視界の端になにかを捉えた。
川を外れた緑地、池というより水溜りといえる、小さなその場所に、花のつぼみがひとつ。
水面から、ちょこんと頭だけを出した小さなつぼみ。閉じたがくのその先に、花びらの白を僅かにのぞかせている。
ラアは思わずしゃがみこみ、手を伸ばした。
ラアの指先がつぼみに触れた。と、その瞬間、つぼみの先がほんの微かに、桃色に染まった気がした。
「睡蓮だな」
シエンが、後ろから覗きこんで言った。「増水時に流されて、取り残されたんだろう」
「……ねえ、この花、大丈夫かな。こんなところで、たった一つきりで」
小さな、深緑の葉を三枚だけ連れて、それだけで。こんな小さな池の中で。
漠然と投げかけられた問いに、シエンは、すぐに答えを返せなかった。
見る限りそれは、絶望的な状況に思えた。この小さな池が、昼の灼熱にどれだけ耐えうるだろうか。また水面下に隠れた長い茎と根はどうやら貧弱で、花一輪を咲かせるのは、まさに命がけのようだった。
けれど、見えるものだけでは、何も分からない。もしかするとこの水は、ずっと深く、地下から湧き上がるものかもしれない。そうでなくても、厳しい環境に生きるからこそ、変わる力を持つことがあると、彼は知っていた。
「生きようと思えば、生き抜けるさ」
答えるシエンのその声は、投げやりなものでなく、どこか、温かかった。
ラアはそうして、またその花のつぼみを向く。
睡蓮のつぼみ。そういえば、神殿の池にあるのと同じ。けれど、黄色や赤や橙の、いろんな色と一緒のそれらとまるで違って、ひとりきり、寂しそうに見えたから。
こんなに小さく、こんなに狭い池に、それでも精一杯生きている。花を開こうと、懸命に天を仰いでいる。
「がんばれっ、大丈夫!」
無邪気な願いを込めて、声をかけると、ラアは、猫のように目を細めて笑った。
*
東の地平がうっすらと明るみを帯びるころ。
半分ほどしか天井をもたない、装飾のない白い壁に囲まれたその部屋に、
青年が、ひとり。
片膝をつき、同じ丈ほどの大きな竪琴を、奏でる。
ぴんと張る弦に耳をそばだて、そのかすかな震えを逃すまいとするように、目を閉じて。
弦楽の聴客は、たった一輪の花。
床の半分を満たす池に浮かぶそれは、開きかけたつぼみの先にわずかに紅を差した、白い睡蓮。
彼はふと、弦をはじく指を止める。
そうして目を閉じたまま、じっと何かを感じ取ろうとしているようだった。
やがて、口元に浮かぶ微笑。
「……待ちわびたぞ」
白い衣の筋をひいて、池の前にかがむと、開きかけた睡蓮のつぼみに、手を掲げる。
湧き出る水が一筋、指の間を伝って滑り落ち、つぼみに注ぐ。
すると、花弁がゆっくりと水面へ向かった。
曲線を描いて伸びた先がつんと尖った花びら。それらがいくつも重なって、水面から伸びた茎の上に広げられる。それは、まるで内に火を燈したアラバスターの杯のように、淡く透け、また重なりに柔らかな影を生む。
そこに、少女の姿が浮かび上がった。
人の姿をしてはいるが、人というにはあまりにも小さい。肌は白く透けて、頬や指先がほんのり桃色に染まる様子は、まるで足下の睡蓮と同じ。
その少女は、早朝の柔らかな光を返す睡蓮のほの白い光の中に、まるで幻のように映っていた。
細い腕で伸びをし、大きな目を開く少女の前に、青年は腕を伸ばす。そうして、睡蓮の花と、そこに浮かぶ少女を、その手で包み込んだ。
「目覚めを祝福し、わが名、『生命神ハピ』の下、名を授けよう。
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき