LOVE FOOL・中編
第4・5環
『4・5環』
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温度調節された冷風が露わになった肌と頬に吹きかかる。
柔らかな煉瓦色の髪を押さえ、気が付くと彼女はある列車の前に立っていた。
閑散とした空間に高い天井と長椅子が果て無く連なり、何処か大都市の旅客駅だろうと
窺わせるが辺りには誰も居ない。
煽られぶるりと肩を抱くと、焦げた様に千切れた箇所や、裾から傷だらけの肌が露出し
ボロボロになったウェディングドレスを着て事にさえ今気が付いたほど。
無人のホームには場違いな格好の自分が一人きり。
―私はこの列車に乗ろうとしていたのだろうか?
左右に視線を泳がせるも旅行鞄は見当たらない。
そもそも自分は何処から来て、何処に向かっていたのだろう。
月に照らされた明るい夜の蒼色をした車体に細くしなやかな曲線は見慣れない奇妙な印象を与えたが美しくもあり、思わず開いたドアを覗き込む。
殺風景なフォルムと裏腹に、壁紙と椅子の背が上品な色合いのダマスク柄で統一された車内は広く煌びやかな内装で、奥からは甘い香が鼻腔を擽る。
何も思い出せない不安に一歩、列車から後退すると長身の美しい女性がそれを引き留める様に恭しく手を差し伸べた。
ドアからするりと現れ半身しか見せない乗務員は微笑を浮かべ乗車を促す。
「ごめんなさい。私、乗車券を持っていないの」
「お客様からは既に頂いております。どうぞ中へ」
「―え?」
そう言うと足首程の長い髪をさらさらと靡かせた彼女は、か細い腕からは想像もつかない力強さで背中を強引に抱き、乗り降り口に引き入れる。
戸惑いながらも脚を踏み入れ、転がる車両はカフェエリアだった。
食事の時間は過ぎた様で、人々は談笑しながら焼き立てのパンケーキやタルトを口に運んでいた。
先程の甘い香は此処から漂っていたのだ。
とたんにぐるると鳴る腹を押さえると、横のテーブルに座っていた青年が忍び笑いを浮かべ声をかけてきた。
黒い短髪に黒いマント。死神の様にも見えるが眼差しは優しく、戸惑う花嫁に語りかける。
「随分と疲れた格好をしている。何があったかは聞かないが、座って何か食べたらどうだ?」
五重のパンケーキや温かいワッフルを銀色のトレイに乗せたウェイトレスがすかさず彼の元に運んでくると、どうぞと掌で示す。
席に着くと、勝手に料理が運ばれてくる。
乗客は好みの物を選べば良いという訳か。
「それが何も思い出せなくて」
「名前も?」
遠慮がちにワッフルの皿を取りながら素直に頷く。
それから「美味しい」とひと切れ口にした笑顔に、険しく話を聞いていた彼の表情も和らいだ。
「君を見ていると亡くした女性を思い出す。顔は覚えていないけれど、確かに居た」
「貴方も思い出せないの?」
「ここの乗客は皆、大切な記憶と引き換えに深淵の中を彷徨っている」
「そう。記憶が「乗車券」なのね」
真っ白い皿にラズベリーソースで描かれたウサギから視線を上げ、席から顔を覗かせるとホームからはよく見えなかったが、この列車には多くの人が乗車していた。
彼等は皆、自分と同じく記憶と引き換えにこの列に乗っているのだろうか。
否。車窓から人影は見えなかった。
誰一人。現実には存在していないとしたら…。
瞬間、ぞくりと冷たい汗が背筋を流れる。
(私はこの列車に乗ってはいけない)
「やっぱり、戻らないと…」
徐に席を立ち、来た方向に踵を返す。
「エターナル。名前が思い出せないのならこれからそう名乗れば良い」
「やめて。私は貴方の「エターナル」じゃない」
掴まれた手を振り払い、跳ねのけると汽笛が車内に響く。
音に弾かれ引き千切れたドレスの裾を摘むと、踵のぐらつくヒールを脱ぎ捨て駆け出した。
来た時は短かった車両は、出口までが異様に長い。
脱出を拒む意思を持ったシュレディンガーの変貌に、「逃げなければ」という思いは確信へと変わっていた。
近づけば遠のくドアのノブに飛びつき、全身の重さを掛けてスライドさせると
内側に追い戻そうと吹き込む風が、悲鳴に似た轟音で逃亡者を竦ませる。
扉に絡めた指が一本ずつ引き剥がされてゆくのを堪え、隣車両の中に入ると今度は小さな少女が
こちらに向かって大人びた冷笑を浮かべていた。
「ねえ、キミ。そんなみすぼらしい格好で何処に行くつもり?
せめて新しい服に着替えてからにしたらどう?」
小柄な躰の向こうに最後尾のドアが見える。
動き出した列車から逃れるにはあそこから飛び降りるしかないのだ。
「いいえ、結構。このままじゃないと、きっと彼は私だと判らない」
「へえ?随分ちっぽけな思いだね。強い想いがあればどんな姿になっても判る筈だ
歴代のプリンセス達がそうであったように」
「私はプリンセスでも無いし、魔女のいいなりになって泡になるのもごめんだわ。
第一自分の運命を相手の判断に委ねたりしない」
特にあの、鈍い兄任せになんて出来ない。
ふと無くした記憶の片鱗が浮かび上がり、部屋に入ると風は消えていた。
何かを見通している表情を湛え、少女はすれ違い様唇を曲げる。
「飛び降りて、また「死ぬ」の?」
「お客様、当列車は既に次の駅に向かって加速しております。
大変危険ですので身を乗り出すのはおやめ下さい」
乗務員の声と少女の嘲りが眼下に広がる闇への恐怖を増殖させ、足が竦む。
確かに、飛び下りればひとたまりも無い。
逃げ切れる保証も無いのだ。
―けれど。
「怖くない怖くない、死ぬのは経験済みでしょ、クロエ・バルドー!」
ぎゅ、と瞼を閉じると、怒声にも似た制止を振り切り彼女は忘れていた自身の名を叫ぶ。頬を軽く二回叩き、勢いよく鉄の柵を乗り越えた。
++
闇はまだ覚めない。
天も地も真っ黒に塗り潰された冷たい床の上で仰向けに倒れていたクロエは瞼を擦り、半身を起した。
怖々地面に手を這わすと在る筈の線路どころか砂利の一片も無い。
磨き上げられた床の感触に首を捻る。
ボロボロのドレスと躰は更に傷を増やし、自分に呆れた溜息を吐く。
膝を払い立ち上がると、突然蝋燭の火が彼女を照らした。
「―今晩は。コープスブライド」
「ひっ!」
浮かび上がる白い顔に悲鳴を上げ再び床に尻もちを着く。
どちらが幽霊か判らない風貌の男は、青白い顔に床まで在りそうな白髪を伸ばし張りついた仮面の笑顔で部屋の燭台に火を移した。
「痛たた…今度は何処なの?天国?地獄??」
「どちらでも無い。俺の城だ」
「やだ。私ったら不法侵入ね」
廃墟の様な城の中は、長年使われていない家具と調度品が無造作に寄せられ壁際にひしめき合っていた。室内が明るく照らされると、幾分恐怖も解ける。
不気味な男への警戒が失せる事はないが、彼の家ならあまり露骨に出すのも失礼だろう。
「此処に来る連中は皆、自分の都合だけでやってくる。お前が初めてじゃない」
「私は迷い込んだだけなの。出口さえ教えて貰えればすぐに出て行くわ」
さほど興味の無い態度で背を向ける城の主に訴えると、彼はくるりと振り返った。
「チェスは出来るか?」
「え…」
「俺に勝てば出口を教えてやろう」
作品名:LOVE FOOL・中編 作家名:弥彦 亨