AI-TRAS
彼は赤旗を電車に向かって大きく振りかざす。だが、電車は減速する様子を見せない。それどころか加速しているようにも見える。その黄白色に輝く前照灯は、まるで邪悪な笑みを浮かべているかのようだった。
彼は叫んだ。
「逃げろ!」
だが、分岐器を元に戻さなければあの電車は脱線してしまうかもしれない。もう一人の若い作業員は手回しハンドルに飛びつき、先程とは反対方向に回し始める。すぐそこに迫る電車。手回しでは追いつかない。初老の作業員は咄嗟に彼を押しのけ、ハンドルを抜き取った。転がるようにして退避する。その直後、電車が猛スピードで通過していった。すさまじい追い風を従えて。
彼らは胸をなで下ろした。間一髪で分岐器が自動制御に戻ったのである。
だが、彼らはしばらく言葉を発することができなかった。電車が通過する瞬間、その電車に誰も乗っていないことに気がついていたからだ。運転士や車掌すらも乗っていない。それは、無人電車だった。
*
「一体、これは……」
総括指令長が呟くように言った。
「まさか、三鷹事件か」
「確かに、偶然とは思えませんね」
と、指令長の一人が同意する。
三鷹事件とは昭和二十四年、国鉄三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件である。国鉄の人員整理に反対した労働組合員が起こした事件だとされているが、未だにその全容は謎に包まれており、現在でも国鉄三大ミステリーの一つとして扱われている。たしかに、これも一種のサボタージュなのかもしれない。
だが、一体誰がそんなことをするのだろうか。
若い技術者は、自らのノートパソコンを用いて犯人を探っていた。彼が指令室にやってきたのは十分前のこと。第一の目的は、指令室の中に犯人がいるかどうかを確かめるためである。指令室とアイトラスの間を流れる通信内容を監視し解析するのだ。信じたくはないことだが、これは内部の人間による破壊工作の可能性が高かった。
総括指令長は動揺した声で、指令長たちと会話している。
「しかし、どうして無人で走れるんだ?」
「マスコンを入れたまま放置されていたとか、ブレーキを忘れていたとか……」
「だとしても、ATSやEBが動作して非常ブレーキがかかるはずだろう。三鷹事件の頃とは違うんだ」
「確かに」
技術者は総括指令長の視線を背中に感じた。彼は震え上がって手を硬直させる。
総括指令長の低い声が彼を呼んだ。
「おい君」
技術者は恐る恐る振り返った。やはり、般若のような顔がそこにある。技術者はかすれた声で答えた。
「……はい……な、なんでしょうか?」
「何でしょうじゃない!」
技術者は恐怖のあまり、自分の体が半分ほどに縮んだかのように感じた。やはり生粋の鉄道員という人種とは肌が合わない、と彼は思った。
総括指令長は語気を強める。
「どうして電車が暴走するんだ!」
その質問は技術者にとって専門外かのように思われた。だが、アイトラスが関係しているとすれば、原因は一つしかない。
「……おそらく、沿線無線WANです。アイトラスと電車を接続しているのはそれしか考えられません。電車側の通信機は車両システムと直結していますから、通信機のプログラムさえ改ざんできれば、理論上は電車を遠隔操作できます」
実際、数年前に|U@tech《ユーテック》と呼ばれる試験車両で、沿線無線WANを利用した遠隔運転の実験が行われた。実験そのものは彼の開発チームとは無関係だが、開発中のアイトラスを貸し出したことがあった。もしかすると、犯人が当時の実験データを入手できる立場にいるという可能性もある。いずれにせよ、可能だと言うことは説明するまでもない。
「改ざんできるのか?」
「はい、理論上はですが。アイトラスには、通信機のプログラムにバグがあった場合に備え、プログラムを遠隔で書き換えるためのシステムも搭載されているんです」
ただし、それを使えるのは内部犯に限られる。そのような重要な部分については、特にセキュリティが高く設計されているからだ。限られた端末で、限られた人間しかアクセスできない。しかも、アクセスの際には必ず記録が残るようになっている。
彼はハッとした。もし犯人がアイトラスを使って通信機のプログラムを改ざんしたのであれば、その記録がシステムに残っているに違いない。彼はすぐさま記録の確認を行った。
アイトラス起動直後からの記録が、画面に一覧表示される。確かに、混乱が始まった十時頃に動きが記録されている。何者かによって、通信機のプログラムが書き換えられているのだ。電車の暴走はこれが原因に違いない。
ところが、肝心の送信者名は『SYSTEM』となっていた。それが意味するところは、アイトラス自身が、プログラムの改ざんを行ったということである。だが、そんなはずはなかった。犯人が記録までも改ざんしたのかもしれない。それほど甘くはないか、と技術者はため息をついた。
彼の携帯電話が震えた。サーバールームにいる開発チームの一人からの電話だった。彼が現状を報告すると、電話の向こうの技術者はため息をついた。
『こうなったら、しらみ潰しでいくしかないな』
「そうですね」
『システムを停止して初期状態に戻そう』
システムを初期状態に戻せば、手っ取り早くコンピュータウィルスやクラッカーの置き土産の可能性を排除できるわけだ。そして、旅客案内システムやCTCといったサブシステム、路線情報やダイヤ情報といったデータなどを一つずつ手動で読み込ませてゆく。再び異常が発生すれば、その時点で読み込まれているものに異常やセキュリティの穴があるということになる。大ざっぱだが、異常箇所を絞り込むには効果的な方法だ。
だが、本番のシステムでそれを行うことは滅多にない。通常ならば、本番と同じ条件のコンピュータを用意してテストを行う。しかし、アイトラスの場合、一部に生体コンピュータ技術が使われているため、全く同じ条件の環境は作り出せないのだ。人間の脳をコピーできないのと同じである。
『じゃあ、指令室の準備が整ったらまた連絡してくれ』
「はい、分かりました」
彼は携帯電話をポケットにしまうと、総括指令長に振り返った。
「……あの」
「なんだ?」
「……今からアイトラスのシステムを初期状態にリセットする作業をしようと思います。無線を除いて、指令室の全機能が停止しますが、よろしいですか?」
「それで直るのか?」
「それは分かりません」
「なんだ、技術者だろうが」
「これは、原因を突き止めるための措置です。少なくとも電車の暴走は止まるかと」
「ま、これ以上悪くはならないだろう」
総括指令長はスクリーンを見つめた。時刻は十一時五分、最初の異常から半時間経とうとしている。彼は無人電車が長岡京駅と山崎駅の間をゆっくりと走行していることを確認し、指令員を通して、それに関わる一連の指示を出した。
「これでいいか?」
「……はい」
「早くしろ、十五分だ」
総括指令長は不機嫌な口調で、彼を睨みつけた。
技術者は携帯電話で準備完了の旨を開発チームに伝える。