LOVE FOOL・前編
いつもなら決して戻って来ない時間に、訝しみながらもドアを開く。
廊下に顔を覗かせると狭い家の一階から案の定、客の談笑が聞こえて来た。
まだ店は閉まっていないのに、何故?
ニーナは彼の目の前に近寄りもう一度訊ね、手に握られた銀色の輝きに視線を落とした。
「きゃ!?」
その正体と閃光に思わず身を退くと間一髪で研ぎ澄まされた肉斬り包丁が彼女の鼻先を掠める。
はらり、と髪が削ぎ落ちる目の前を信じがたい表情で見返し、彼女は怖々と顔を向けた。
「父さん…どうして…!?」
けれど彼は何も答えない。
どこか夢遊病の様に虚ろな眼差しで娘を見下ろし、再び刃を高らかに振り上げた。
「ニーナ!」
恐怖から竦む体を寸前でヴィヴィアンが引き寄せ、叫ぶ。
躊躇いの感じられない証拠に、彼の振り下ろした一撃は床板に深く食い込み直には抜けない様子でいる。
今にも父親に縋りつきそうな彼女を脇に抱えたまま、ヴィヴィアンは彼を部屋に閉じ込めた。
階段を駆け下り出た酒場にはまだ大勢の客がいつもと変わらず、酒を交わしていた。
店を入って来た時と変わらない様子だったが、彼らは一様に2人を見るなり目の色が灰色に濁る。
「みんな!…どうして」
「…聞こえてない。この街で一番高い建物は?」
焦点の合わない瞳。
こちらが見えているのかすら怪しい。
術に操られた人々は、ナイフ、砕いた椅子、割れた瓶、それぞれが身近な凶器を手にし始め、彼女の父親と変わらない。
これが先刻の正体か…。
ヴィヴィアンは眉を寄せ、小さく舌打ちを吐く。
何者かは知らないが、人間同士殺し合いをさせるなんて趣味が悪すぎるだろう。
動きが鈍いのだけが幸いだが、一人一人相手をするには数が多過ぎた。
逸れない様、二人は手を繋ぎ襲いかかる人々を押しのけ店の外を目指す。
狭い直線の距離がこんなにも遠く感じるとは。
「中心に山火事を見張る監視塔が…!」
転がりながら町の出ても尚、執拗に追い掛けて来る人々を振り返り、ニーナは泣きそうに顔を歪めた。
支え合う様にして逃げる小さな身体に向かって振り下ろされたナイフが腕を裂き、
伸ばされた手はヴィヴィアンを捕えようと四肢に群がる。
何か妙な違和感が胸に過った。
殺されかけるニーナと取り押さえられる自分。
彼らは何をもって区別しているのか?
普通に考えれば、自分こそ命を狙われていそうなものなのに…。
けれど今はそれを深く考える余裕すら持てず、ヴィヴィアンは止まってしまえば崩れ落ちそうな脚をひたすらに動かした。
「そこから魔法陣を探す!…場所と属性さえ判れば直ぐに解ける」
「はい!」
こんな事態でも少女はにっこりと笑う。
彼女のこの自信は何だろう。
ヴィヴィアンはあまりにも自分と違う性格のニーナにほんの少しだけ、感心にも似た好意を覚えた。
「おーほほほほっ!
せいぜい逃げ惑うがいいわ、ヴィヴィアンヴァルツ!積年の恨み、思い知りなさい!」
町全体を隈なく見渡せる監視塔。
木製のやや傾いた塔の最上階で携帯用の望遠レンズを覗きながら、黒いドレスの女が
けたたましく嗤う。
大きく開いた胸元と割けたスカートから覗く妖艶な脚。
真っ赤なルージュをくっきりと引いた彼女は、隣で同じ様に身を屈めレンズを覗く少年の背をばしばしと叩いた。
「ご主人〜。なんかおかしくないですか?」
痛みに背骨をくねらせながら望遠鏡から視線を外し、すこぶる機嫌の良い主人に顔を向ける。
「何が?」
高揚した気分をぶち壊す緩い声は、即座に彼女の笑顔を掻き消した。
剣呑な眼差しが少年を射抜くと困り果てた表情で肩を竦ます。
派手に身を固める主とは反対にベージュの髪を両サイドに束ねたたけの質素な外見。
簡易な衣装から覗く手足と髪に隠れた額の傷痕は、人の手によって意図的につけられた
のだ。
「この魔法陣…殺人を誘発するまでの憎悪にはならない筈です。
街全体なんて規模が大きすぎ…ません、か?」
そんな魔導力、貴女には無い。
喉まで出掛かった最後の一言を咳払いで誤魔化し、語尾の間伸びた口調で素直に訊ねた。
壁を四角く空けただけの窓から逃げ惑う2人を見下ろすと、町の大通りはもはや操られた者達の群れで埋め尽くされ、闇の海を不気味に蠢く。
酒場の客だけでなく町の住民までもが、次々に武器を手に取り少女とヴィヴィアンに襲いかかっている。
彼らは自我も無く疲れもしない。
じりじりと追い詰められている彼らが捕まるのは時間の問題だった。
いくら恨んでいるとはいえ、死なれては後味が悪い。
従属がきゅうん?と可愛らしく首を捻れば、今度ばかりは彼女も素直に頷く。
「そう言われればそうだわね?せいぜい酒場の中だけの予定だったけれど…」
見た目に反し脳天気な女主人はドレスの裾を摘み、窓の縁に腰を落ち着け溜息を吐いた。
脚を組み代え、バツの悪い表情で丁寧に巻かれた自慢のカールを指で弄ぶ。
口を尖らせ、落ち着きなく視線を逸らす、悪戯が見つかった子供の様な主の態度に一抹の不安を覚える。
まさかとは思うが…。
少年は意を決し強く念を押してみた。
「ご主人。魔法陣…ちゃんと描いたんですよね?」
「失礼ね!ちゃんと本の通りに仕上げたわよ!」
「うーん…」
それなら何故?
訳が判らないとばかりに彼は再び望遠鏡を覗き見た。
いくら嫌っていようと憎んでいようとも、人はそう簡単に人を殺さない。
勿論、僅かな例外はあっても。
町の住民全員が、まして魔術で操作された即席の感情で此処まで激しい殺意を抱くだろうか?
「何故だろう?」
「何故かしら?」
自分が施した魔法陣であるのもかかわらず、予定を越えた術の効果に二人はだた戸惑う。
これではとんでもない悪役ではないかと顔を見合せた。
「で、でもあのヴィヴィアンヴィルツよ!?
殺されたって素直に死なない男だわ。
大人しくされるままになんてなるものですか」
おほほほほほ!
手の甲を口元に当て、小指を立てる。
夜空に向かい高らかに身を反らせて笑うものの、やはり気にかかるのか彼女もまた望遠鏡を覗いた。
「ご主人〜…」
…本当にそれで良いのだろうか?
主人より少しばかり理論的かつ心配性の従属は光沢のある黒マントをついついっと引く。
「煩いわ。ほら、見失ったじゃない!」
思いがけない方向に暴走しているとはいえ、相手は天才魔術師だ。
「自力で何とか出来る筈」と、どこかで楽観している彼女に手で軽くあしらわれながら
再度しつこく声をかける。
「ご主人、ご主人〜」
「お黙り。もう…どこに隠れたのかしらあいつ…」
全く聞く耳を持たない主は、見失った2人の姿を探してキョロキョロと町の通りを見回した。
月が翳ったせいで酷く見晴らしが悪い。
加えて沸いて集まる人の多さに、誰がヴィヴィアンであるのか走っていなければ見分けがつかなかった。
まさか…本当に死んだ?
彼女は過った言葉の重みに自身の肩を抱く。
ころころと顔色を変え、笑っていたかと思えば今度は酷く青ざめる。
従属はやれやれと呆れた表情で頭を振り、瞳を顰めた。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨