僕の好きな彼女
「ありがとう」
僕は頷いた。
「助けてくれたことに、感謝してる」
僕は頷いた。
「幽霊があるなら、来世もあるかもね。来世があるなら、もっとちゃんとした形であなたに会いたいな」
僕は、頷いた。
「手を、重ねてくれる?」
彼女がそう言って右の掌を差し出した。
その様子は僕がはじめて彼女を見つけたときの、風見鶏のように手のひらを太陽にかざしていた姿を思わせた。
僕はその手のひらにそっと自分の左の手を重ねようとした。
しかしそこに質量はない。
彼女は幽霊で幻影で、陽炎で『解けゆく波』そのものなのだ。
「目を閉じて」
僕は頷き、目を閉じた。
「『ポルターガイスト』って知ってる?
幽霊に与えられた、数少ない『チカラ』。
ここにある私の最後の意識で――やってみるね」
彼女がそう呟き、直後、
僕の掌には、握り込む暖かく柔らかな指の感触が伝わった。
それが僕がはじめて触れた彼女の感触だった。
驚き思わず僕は目を開いた。
しかし、
――もうそこにはなんの姿もなかった。
彼女のすべては風の中にかき消えて、余韻の欠片も残さず世界からいなくなった。
指の間に残る感触が、僕に分かる彼女の存在を示すすべてだった。
だけどそのぬくもりも僅かなものだったので、あっという間に夜の冷気が奪い去っていった。
人生を形作るのは影で、悲しみで、怒りで、忘れがたく自己中心的な感情ばかりが主だと僕は思っていた。
でも、彼女に触れてその考えが揺らいで、あらゆる感情はネガティブなものもポジティブなものも、もしかしたら愛情にこそ根ざしているのでは無いだろうかと思った。
彼女の『波』と僕の『波』。
束の間広がって交差し、あっけなく消えてしまった水面の揺らぎ、波紋。
僕を彼女は少しだけ変えて、そんな彼女は失われてしまったけど忘れることはできない存在で、消え去った悲しみではあっても、奪われた怒りではあっても、深く根ざすのはその在り方への憧れで、僕の中に芽生えた静かな愛なのだろう。
それは僕の好きな彼女への。
どこかへ消えた彼女の姿を探して僕は一度空を見上げた。
気がつけば、僕らの地上に向けて冷たく注いでいた夜の雪は、いつの間にか完全にやんでしまっていた。