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托卵結婚

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『托卵結婚』

常務は実にアグレッシブな人で、仕事も性欲も人並み以上だった。いろんな女と浮名を流し、子供ができたという話も一つ、二つではない。ハンサムで地位も高く、金払いも良かったので、たいていの女は口説かれると落ちるのだ。
常務と飲む機会があり、さりげなく愛人のことを聞いたことがある。
「妻と別れ、今は独身だ。誰にも遠慮することはない。今付き合っているのは、とてもかわいそうな娘でね。縁あっていろいろと世話をしているうちに深い仲になってしまった。でも、いつかはお嫁に行くときが来る。彼女ももう三十だ。決して若いとはいえない。その時が来たら、きっぱりと縁を切るつもりだ」

会社のパーティの席で、真面目だけが取り柄の同期である大野は、美しい女性と隣り合わせになった。入社したときから、彼女の存在は知っていた。その美しさにひかれていたが、残念ながら声をかける機会もなかった。酔った拍子に、「恋人はいますか?」と聞いたら、
彼女は嫌な顔をせずに「いません。あなたは?」
「僕もいませんよ。よかったら、僕と付き合ってもらえませんか?」と酔いに任せて言ってしまった。
「いえ、冗談です。気にしなくていいです」と慌てて取りつくろうと、
「かまいませんよ」と彼女が微笑んだ。
夢のような一瞬だった。だが、それは夢物語の序章に過ぎなかった。 出会って半年後、二人は結ばれた。

大野は会うたびに妻のことを自慢した。料理がうまく、気立てがいい。そのうえ美人だと。いつも同じ話なので、聞いている方は辟易したが、本人はそんなことを気にせず喋りまくった。
いつだったが、街で奥さんと仲良く歩いているときに、偶然にも出会った。 初めて彼女と出会ったはずなのに、なぜか初めてじゃない気がした。
「美晴です」と彼女は丁寧にお辞儀をした。
顔をゆっくりあげたとき、確かに前にどこかで出会ったような気がした。「以前、どこかで会いませんでしたか?」という言葉が喉まで出かかった。

数日後、恐ろしいことに気づいた。大野の奥さんが常務の愛人ではないかと。美晴という名で大崎美晴という名前を思い出したのである。大崎美晴は、一時常務の秘書をしており、ただならぬ関係があるという噂が広まった。すると、彼女は総務に移った。秘書をしたとき、ちらっとではあるが見たことを思い出した。その時の顔が大野の奥さんの顔と一致したのである。また、同僚が、常務と秘書が仲良くホテルに入るのを目撃したことがあると語ったことも思い出した。大崎美晴は寿退社したと聞いていたが、まさか大野の奥さんの座に収まっていたとは。
休日の夕方である。たまたま常務の近くのマンションに面した喫茶店で知人と会っていた。そこからマンションの駐車場が見えた。窓の外を見ると、見慣れたBMWがゆっくりと駐車場に入ろうとしていた。運転していたのは常務だった。助手席に大野の奥さんが座っていたのである。おそらく二人で一時、マンションの一室で過ごしたのであろう。思わず、二人がどんなふうに交わっているのかを想像してしまった。常務は、愛人が結婚したら別れると言っていたが、そうではなかったようだ。
半年後、大野が、子供ができたことを嬉しそうに告げた。そのとき、彼の顔をまともに見られなかった。奥さんが常務と密かに会っている事実を伝えるべきかどうか悩んでいたからである。

大野に子供が生まれた。写真を見せてもらった。眉目秀麗な子だった。彼女が結婚したのは、大野に恋したわけではなく、常務の子を宿し、世間体のためにしたに過ぎないと分かった。
独身だった常務は既に大手銀行の令嬢との再婚が決まっていた。
大野は子供の写真を見せながら自慢した。
「この子はとてもきれいな顔をしている。俺に似ず、妻に似たんだ」と嬉しそうに彼は言った。

子供が生まれて、一か月後のことだろうか、大野に誘われて飲みにいった。
彼は鯨飲し、酔いにまかせ呟いた。
「世の中には変な奴がたくさんいるんだ。俺の奥さんが浮気していて、子供は俺の子じゃないという奴が。全く馬鹿げている。あんな優しくていい人が浮気をするはずがないだろ? そう思わないか?」
うなずくしかなかった。
「やっぱり、そうだよな。俺の考えは間違っていない。よく人の不幸は蜜の味というが、でっち上げて不幸を作ろうという輩がいるんだ。この世には、たくさんいる。“お前はだまされている。彼女は托卵結婚したに過ぎない”とYが言ったけど、それは絶対嘘だ」
Yとは大野とそりの合わない同僚で、毒舌家として社内で有名である。
最後にぽつりとつぶやいた。
「死ぬのは怖いよな。だが、死ねば悩むことから解放される」

大野が自殺をしたのは、それから一週間後のことだった。自殺する直前、携帯で自殺をほのめかしていた。
「自殺は馬鹿げている」と言ったら、
「分かったよ」と答えたので、さほど気にしなかったが、本当に死んでしまった。
断崖から転落した海に落ち、水死体として発見されたのである。遺書らしいものが何も残っていなかった。それよりも奥さんが「夫は海に行くと言っていました。きっと足を滑らせたのかもしれません」と刑事の前で泣き崩れたので、自殺ではなく事故死ということで落ち着いた。

夫が亡くなって二か月後、奥さんは夫の保険金をもとに新しいマンションに引っ越した。その新しいマンションというのが、自分の実家近くである。
実家に帰ったとき、奥さんのマンション近くの駐車場で、BMWから降りる常務を見た。おそらく奥さんのところにいくのだろうと推測した。二人の関係が続いていたのである。子供が仮に常務の子であったとしても、大野が死ぬ理由にはならない。嫌なら離婚すればいいだけの話である。美人の奥さんは、常務との関係を続けるために、わざと、人が良く、気弱な大野を結婚相手に選んだのではないか。ひょっとしたら、「この子はあなたの子じゃない」と囁き、彼を自殺に追いやったかもしれない。むろん、単なる邪推かもしれない。ただ大野が憐れでしかたなかった。


作品名:托卵結婚 作家名:楡井英夫