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みやこたまち
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アイボリーモカシン vs ブラウンアスコットタイ

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2.ブラウンアスコットタイ



 予め特徴は知らされていたたずだった。
 半分の白髪。チタン縁の眼鏡、グレイフランネルのスリーピース、ドレスシャツ。シルクの棒タイ。ウイングチップの黒皮靴。白蝶貝のカフス。シトラスのオーデコロン。八重歯左右に各1本。指輪無し、などだ。「それ」が私のプライベートルームのソファーで、がっくりとうなだれていたのを見つけるまで、その事を忘れていた。

 部屋の扉を自分の姿態の分だけ開いて滑り込ませた私は、幾分警戒レベルを下げ、カードキーや小銭なんかをライティンビュローに放り投げようとした。その矢先だ。
 壁にかかっているマホガニーの木枠のついた豪奢なカガミの一隅にうつる赤いソファーの背中から、乱れた白髪が見えていて、私は思わず手元が狂った。小銭がバラバラと、気が遠くなるほどゆっくり、そしてしつこい程いつまでも、ちゃりん、ちゃりんと大理石の床へ落ち続けた。裏になり表になり、裏になり表になり、「チヤリン」と床との最初の接吻をしたのち、弾けるように逃げ惑う小銭の舞踏など見たくないし、何よりも耳に障った。
 男の首筋にビクリと芯が通った。発条じかけように、男は振り向き私を見つけた。
 だが、その劇的な運動は唐突に終わった。発条が緩みきったかのように、男はがっくりとソファーの背に額を押しつけた。私には分かる。この緩んだのは発条ではなく、生への執着だったのだということが。
 その時だったのだ。私がこの男を知っているということを、思い出したのは。そしてさらに私は思い出していた。男とは、既に今朝、同じ時、同じ所で遭遇していたのだという事を。

 その時男は膝まづいていた。散乱する書類。とるにたらないレポートの添付図版が舞い落ちたすぐ先を、私は通りがかったのだ。はっきりと覚えている。私は男のカフスを見て、それから鳩のようにひょこひょこと蠢く首をしっかりと取り巻いている茶色のアスコットタイを見たのだ。がっちりしたスーツの肩が、心持ちすぼめられて、男は必死に書類を拾い集めていたその中心にあのアスコットタイがあった。
 違和感。
 間近で見た男のアスコットタイは、確かに怯えていた。だが男はグレイフランネルのスリーピースを着こなし、束ね終えた書類を小わきに抱えて颯爽と歩いていったのだ。微かなシャツの皺すら我慢ならぬように胸を張り、不遜に書類を手渡す青ぞりの顎。ゆるぎなく相手に対峙するウイングチップの皮靴に曇りない光沢を滑らせていた。
 違和感。
 なぜ男はあんなタイをしているのだろう。エリートサラリーマンだと片づける事が出来ない違和感が、しばらくつきまとっていたのだった。
 昼食を済ませると違和感は消失した。だから、午後になって突然「あれは恥ずかしがっていたのだ」という解答が突如として頭にひらめいた時には、一体何が恥ずかしいのか、私が接したクライアントの中のだれが恥ずかしがっていたのか、また、私自身のしている事が恥ずかしいという無意識の声なのか、などと戸惑った程だった。
 だがその謎も解けた。恥ずかしがっていたのは男だ。男のアスコットタイだったのだ。

 男は相変わらずソファーから動かない。私はバスローブを羽織って頭を拭きながら男のソファーの向かいに座る。窓からは摩天楼じみた夜景がとげとげしている。私は今日一日の首尾を考える。
 決算書のすりかえ。 ―完了。
 政界とのパイプ確保。 ―継続中。
 ライバル会社の株式に関するインサイダー取引の捏造共謀者。 ―コンクリート詰め。
 引越しのための住民票届け。 ―忘れていた。間に合うか?
 問題ないだろう。問題は一つだけだった。
 目の前の男と私との関係だけだ。 ―忘れていた? 間に合うか?


 男は殆ど全ての特徴を備えていた。ただ一点。タイだけが違った。そして男が私よりも前に私のプライベートルームへ入り込んでいたという事実もある。私は男を探していたのだ。いや探すように依頼されていたのだ。協力者か。それとも……

 ただ一点。タイだけが違うから別人だと、そう考えるのは効率的ではない。むしろ、罠だったのではないだろうか。その一点の違いに捕らわれた隙に、男は逆襲をしかけようというのではないのか。
 私は、はっとして身構えた。なぜなら、男はいつのまにか堂々と足をくみ、コニャックを回しながら、何かを問いかけようとしていたからだ。