9月 麦わら帽子の番人
その物体は3色に分かれていて、上から汚い黄土色、灰色みたいな生成り、紺青色だった。何だろう?すると、透明なガラスに不意に小汚いボロボロの麦わら帽子が現れた。季節外れのそれは、夏の名残が何も残っていない寒々しい空に頼りな気に動いていた。こんな季節に麦わら帽子を被った人間。
大ちゃんだ・・・!
本命はわからない。けれど、みんなは彼を大ちゃんと呼んでいた。
大ちゃんは歯並びの悪い口を開け、右の鼻からいつも鮮やかな黄緑色の青っぱなを垂らしていた。恐らく、20歳はとうに過ぎているだろうと思われる体つきをして、知恵おくれもしくは障害者であるらしかった。いつも、ヨレヨレになり垂れ下がった麦わら帽子を被り、年中半袖のTシャツを着て、若葉マークとサイドミラーが取り付けてある自転車に乗っていた。
子どもらは、学校帰りなんかに大ちゃんを見かけると、ふざけて後を追って行ったりした。鈴も何度か暇な時に興味本位でついていった事がある。
大ちゃんは、後ろから子どもがくっ付いてきている事等まるで気がつかないみたいに、気ままにあっちに行ったりこっちに行ったりとフラフラ走っていた。子ども達は、ついていくうちに見つけた公園とか駄菓子屋なんかに寄り道しているうちに、いつも大ちゃんを見失う。だから尾行していっているわりには大ちゃんが何処に住んでいるとか、何をしているとかいった類いの事は全くわからなかった。
大ちゃんは通りすがりのおばちゃんやおじちゃん達によく声をかけられていた。きっと、知ってる人は色々知ってるんだ。そうやって声をかけられると、大ちゃんはニコニコして頷いた。どうして、その大ちゃんが鈴の家の庭にいるのだろう? しかも、誰もいない昼間に。
鈴は訳がわからなかった。そうしているうちに、大ちゃんは裏手の砂利を踏んで何処かに行ってしまった。ザッ、ザッ、ザッ、ザッ・・・
この音だったんだ。鈴はすぐに窓を開けて庭に出た。やっぱり特に変化はない。引っかけも、バケツもシャベルも鈴が使った放りっぱなしのまんまで乾いた土を付けて恨めしそうに転がっている。
昨日、母と一緒に行った花屋で何故かどうしてもピンクのひな菊の種が欲しくなってしまい、必ず自分で世話をするからと我が儘言って買ってもらった種を帰って来て早速植え付けた。可哀想に転がっていた道具はその名残だった。一体、大ちゃんは何をしていたんだろう?
鈴はしばらく考えていたが、成績表はいつも2か3の体育だけが取り柄の頭に熱まで加わっているのでどうにもわからなかった。面倒臭くなって、パジャマの上からピンクのシャカシャカパーカーを羽織って外に飛び出した。大ちゃんを見つければわかる筈。
でも、大ちゃんは何処にいるんだろう? 予想に反して家の前の道を真っ直ぐ行って、大きな駐車場の奥にある金網の破れ目をくぐり抜けて出た道を大ちゃんがあっさり通り過ぎた。心なしか、いつもより急ぎ目な気がした。鈴は大ちゃんの後を追跡した。
大ちゃんは廃屋のような家が見える坂を上り、胡桃の大木がある通学路をくねくねと曲がり、裏山の道に入って行った。自転車は普通の舗装された道路を走るように、ごく簡単な作りの山道を難なく登って行った。
鈴はサンダルで来た事を後悔した。いつもと同じ運動靴でくれば良かった。もう既に腐った枯れ葉がぺったりくっ付き、土で汚らしくなった白のビーチサンダルを未練たらし気に見遣った。それにビニールトング部が当っている親指と人差し指の付け根の皮が擦れて痛くなってきていた。でも、せっかくここまで来たんだ。大ちゃんはいつもと同じように鈴には全く気付いていなかった。と思う。
大ちゃんは言葉を話さなかった。或いはただ単に話そうとしなかったとか、外見より遥かに内気な性格だったのかもしれない。実際のところは定かではないが、大ちゃんは私達子どもの前では、音のような声を発するだけだった。
彼はいつも自転車をこぎながら、聞いた事のない節回しの鼻歌を歌っていた。自作だったのかもしれない。そんな大ちゃんについて、子ども達は耳が聞こえていないから話せないんじゃないかと仮説を立てた。
「俺、この間、大ちゃんが信号の手前で車にブーブーうるさく鳴らされてたの見たぜ。それなのに、大ちゃんは自分の事じゃないみたいに、振り向きもせずに信号を渡って行ったんだ。」同じクラスの男子が得意そうに話した。
鈴もそれは間違っていないような気がした。それなら自転車につけてある不自然な位大きなサイドミラーも、初心者マークも子どもなりに説明がついたからだ。きっと耳が聞こえないんだ。
鈴は倒れそうだった。流れ出る大量の汗を拭いながら、息を荒くついて早歩きしていると頭が朦朧としてきた。
雨が降る前の恐ろしく湿気が高い空気に、似たような山道が続いていて、似たような栗の木と、似たような配置の似たような草と石。そして、もうずっとここで当たり前に住んでいたみたいによく馴染んでいる、前を行く大ちゃんのくたびれた麦わら帽子と汚い白いTシャツ。それが永遠に終わらない悪い夢みたいに感じた。
行った事ないけど、噂に聞く樹海はきっとこんなとこなんだ。こんな身近に樹海があったとは・・・知らないだけで世界は広いんだ・・・明らかに風景から浮き出している、垂れてくる鼻水を拭きまくった汚れたピンクのパーカーと、蛍光緑のパジャマを見ながら酸欠の頭で思った。
雷猫がゴロゴロと咽を鳴らしている。鈴が勝手に名前をつけた雷猫は雷雲の中にいて、機嫌が良いと猫みたいに咽を鳴らす。季節の変わり目が好きらしく、そんな不安定な気候には一日中咽を鳴らしている。いや。なにかを企んで咽を鳴らすのかもしれないけど。
そんな鈴には一向構わず、麦わら帽子は人をそそのかして迷わせる蝶みたいに、ふわふわと更に奥へと進んで行った。初めて裏山のこんな奥まで来た。
ようやく、雨が緩んだ蛇口から滴るように控えめに落ちて来た。背中に火がついたカチカチ山の狸みたいに熱さに苦しむ鈴は、意識が飛びそうな目で空を見上げ、とりあえず体温が下がると思いほっとした。
すると、少し先を進んでいた大ちゃんがいつの間にか消えていた。あんなにしっくりと風景に溶け込んでいた麦わら帽子もTシャツも何処にも見当たらなかった。慌てて耳を澄ませてみても、雫が微かに葉を打つ音しか聞こえてこなかった。先に進んでも道はもう途切れていた。何処に消えたのか全くわからなくなって鈴は途方に暮れた。
あぁ、もういいや。今度は寒くなってきたから、もう帰ろう。当たり前だけど体力も限界だった。動ける体力が体を直す事に使われているから、風邪の時はお休みして寝ているんだ。その方が早く治るし。鼻水を思いっきり大きい音をたてて吸い込んで口から痰として出しながら思った。
鈴は元来た道を戻ろうと後ろを振り返った。すると、脇に小さな横道が続いていて、その茂みに隠れるようにして大ちゃんの自転車が倒れて置かれているのを見つけた。鈴は迷わず自転車を乗り越え、横道に入って行った。
作品名:9月 麦わら帽子の番人 作家名:ぬゑ