6月 trilemma兎
カチコチ カチコチ カチコチ
時が崩れ落ちる音。
眠っている人間の夢の重さで息苦しい程の密度の濃い空気。いくら呼吸をしても酸欠さを感じる。寝返りを打つ。
気分の悪い頭の具合。まるでメリーゴーランドに乗っているようだ。すっかりぬるくなったシーツから足をずらす。窓ガラスを叩く微かな雨音。そして固唾を飲む静寂。寝返りを打つ。眠れない。
中途半端な体温。中途半端な怠さ。そして中途半端な清潔さ。全てがうっとおしく纏わり付き私に自己嫌悪感を思い出させる。嫌な夜。
そんな事はわかっている。それを刻み付ける為に、苦しみという歪んだ刃物で自らを深く深く突き刺し続けていたのだから。なにもこんなに陰気な夜にわざわざ思い返さなくてもいいんだ。まったく。吐気のような頭痛までする。もうどうしようもないのだ。私は深呼吸をして瞼を閉じた。
私は結局、彼になにも残す事は出来なかったのだ。いや。それどころか彼をあんな風に振る舞わさせていたのは私だったのだと思う。ただ見えない振りをして無我夢中で引っ掻いたのだ。彼も自分もわけもわからず傷だらけにしたのだ。それだけだった。たったそれだけ。
カチコチ カチコチ
1人腐っている私には構う事はなく時は崩れ落ちていく。
首に張り付いてくる半乾きの伸ばしっぱなしにしただらしない髪の毛が気味悪く感じる。絞められるようだ。彼の手なのかもしれない。私に深く貫かれた彼の恨みの手なのかもしれない。だとしたら。
だとしたら、甘んじて受けねばならない。それで気が済むのなら・・・ああ、バカバカしい。ただの自己満足。手前勝手な自己犠牲。誰を相手に? 反吐が出る。彼に等なにも伝わりはしないのに。1人遊び。どこまで傲慢なのか。それとも未練? どちらにしても、後悔して流す涙と同じ事。同じ意味合い。
どうせ。どうせ寂しがりやの彼は今頃、私への怒りを無責任な勢いに変えて誰かと見つめ合ったり何倍も楽しそうに話したりしている。私と別れて本当に良かった。別れた方がこんなに楽しいのだと体中で証明するかのように。それが彼の自分の慰め方なのだ。寝返りを打つ。これで何度目だろう。
何処かで鶯のメロディに似た調子で丑三つ鳥が鳴いている。雨は止んだらしい。満遍なく濡らされたアスファルト道路の表面を車のゴムタイヤが擦っていく音が遠くから聞こえる。その音は大きな竹の笊に乾いた小豆をたくさん入れてごくゆっくりと揺らすよう。波の疑似音。波打ち際か。耳を澄ましているわけでもないのに、やけに大きく響く。ああ・・・ けれど眠れない。まるで味の抜けたガムでも咬んでいるような変な気分だ。未練なんて苛々しながらガムと一緒に吐き捨てた筈なのだ。
寄せては引くようにまたぼんやりとしたなにかの残骸が思考を徘徊し始める。もううんざりだ。生欠伸をする。気分が悪い。何処もかしこもぬるまった布団からはみ出しながら、私はシルエットで縁取られた部屋を見渡す。ぼんやりとした人影のようなものに一瞬動揺しながらもそれが自分で脱ぎ散らかした服の山だと気付く。冷や汗と一緒におかしさが込み上げてきた。一人でなにをしているのか。
悔いてはいない。けれど、彼はなにも悪くはない。彼の罵倒したように私が彼を掻き回して引きずり回したのだ。自分の為に。自分の受けるだろうダメージを少しでも和らげる為に。結局今等なにも見えてはいなかった。何処かで待っていて不意に物陰から飛び出してくるだろう辛い未来ばかりに支配されて、私は先の事しか見てはいなかった。己を守る為に足掻いている身と、既に守られているくせに気付かない身。どちらが先に傷つくか。どちらが最後に傷つくか。どちらが切り出すか。そんなくだらない緊張状態。そんな事にしか彼と一緒にいる自分を見出せなかったのか。そうかもしれない。私は心底疲れたのだ。この夜の静寂を1人で過ごすよりも彼と2人で車に乗っている事の方が。いくら思い返しても色が褪せ、全てがモノクロに暮夜けている世界。生々しく鮮やかな色彩はどこにもないのだ。まるで夢のような。それにしては嫌な香りの込み上げてくるような。物事の終わり独特の物悲しい香り。
その香りを避ける事もせず敢えて私は鼻をひくつかせる。久しぶりのその香りは微かな哀愁が入り交じり、切ない懐かしさすら覚えてしまう。頭の後ろから入り込んで心をつねられるような暮色。さすがに深呼吸までしようとは思わないけれど。
カチコチ カチコチ
ため息が溢れる。いつか誰かがため息1つつくと幸せが1つ逃げていくのだと言っていた。だとしたら、私と彼の幸せは逃げまくってしまったのだ。あの間の膨大なため息は、朦朧とするような快感だけに支配されたセックスの時に口走る台詞よりも耳元に残っているのだ。
再び雨が降り出した。まばらなお客のやる気のない拍手の音。もう舞台は終了したのだ。再び幕が上がる事はない。二度とアンコールはないのだ。だのに拍手の音はいつまで経っても止まない。地団駄すら踏みたくなる。
夢の中で崖を渡ろうとして実際に足を動かして目が覚めるように、私は何度か足を苛立ち紛れに布団の上で打ち付ける。勘弁して。私はもう無理だったんだ。そんなに責めないで。少しくらいよくやったと誉めてくれてもいいじゃない。
悪寒が走る。白々しい。まるでいつかのように体を丸めて蹲って悲しみを表現するかのように、やりきれない気持ちを吐き出そうとしている自分自身に。また、重さの増していく脳天で記憶と思いの糸がこんがらがるのだ。今頃彼は、きっと。
いつのまにか瞼が開いていて眼球が生気を発散させて乾いていくのを感じた。生気、いや違う。きっと未練に似たなにかなのかもしれない。それにしても暑い。
こめかみに捻り込まれてズキズキと不快感を放っているものは彼の怒りか、それとも憎しみか。私に苦痛を与えたいのか。そんな心配等は無用なのに。こんな滲みっ垂れたものより意識不明になる程の苦しみを彼から体得したのだから。無機質に開きっぱなしの目が堪えきれずに涙を流す。潤う筈のない心。
カチコチ カチコチ
時の崩れる音は止まらない。無心の涙も止まらない。このまま夜明けを迎えるのかもしれない。けれど、それでも構わない。もう構わない。傷付いた彼の為に私が出来るのはそのくらいしかないのだから。所詮、言葉はなんにもならなかったのだから。嘘をついたつもりはないけれど、結果的に嘘をついたと取られて仕方ないのだ。
真実等があったのだろうか。私に見えなかっただけで、彼の中にはあったのだろうか? わからない。わからない事が多過ぎて、わからないままでも気楽にいれたわけじゃなかった。でも、私は彼の多くを知りたいとも思っていなかったし知りたくもなかった。知り尽くしてしまう退屈さ、面倒臭さを知っていたくせに不安から彼にあれこれと聞き出してしまい、彼には私を知ってもらう事を望んでいた矛盾はやはり一言で言えば自分勝手で相手の気持ちを考えられないという事なのだ。・・・そんな事、言われなくても知っていたじゃないか。
時が崩れ落ちる音。
眠っている人間の夢の重さで息苦しい程の密度の濃い空気。いくら呼吸をしても酸欠さを感じる。寝返りを打つ。
気分の悪い頭の具合。まるでメリーゴーランドに乗っているようだ。すっかりぬるくなったシーツから足をずらす。窓ガラスを叩く微かな雨音。そして固唾を飲む静寂。寝返りを打つ。眠れない。
中途半端な体温。中途半端な怠さ。そして中途半端な清潔さ。全てがうっとおしく纏わり付き私に自己嫌悪感を思い出させる。嫌な夜。
そんな事はわかっている。それを刻み付ける為に、苦しみという歪んだ刃物で自らを深く深く突き刺し続けていたのだから。なにもこんなに陰気な夜にわざわざ思い返さなくてもいいんだ。まったく。吐気のような頭痛までする。もうどうしようもないのだ。私は深呼吸をして瞼を閉じた。
私は結局、彼になにも残す事は出来なかったのだ。いや。それどころか彼をあんな風に振る舞わさせていたのは私だったのだと思う。ただ見えない振りをして無我夢中で引っ掻いたのだ。彼も自分もわけもわからず傷だらけにしたのだ。それだけだった。たったそれだけ。
カチコチ カチコチ
1人腐っている私には構う事はなく時は崩れ落ちていく。
首に張り付いてくる半乾きの伸ばしっぱなしにしただらしない髪の毛が気味悪く感じる。絞められるようだ。彼の手なのかもしれない。私に深く貫かれた彼の恨みの手なのかもしれない。だとしたら。
だとしたら、甘んじて受けねばならない。それで気が済むのなら・・・ああ、バカバカしい。ただの自己満足。手前勝手な自己犠牲。誰を相手に? 反吐が出る。彼に等なにも伝わりはしないのに。1人遊び。どこまで傲慢なのか。それとも未練? どちらにしても、後悔して流す涙と同じ事。同じ意味合い。
どうせ。どうせ寂しがりやの彼は今頃、私への怒りを無責任な勢いに変えて誰かと見つめ合ったり何倍も楽しそうに話したりしている。私と別れて本当に良かった。別れた方がこんなに楽しいのだと体中で証明するかのように。それが彼の自分の慰め方なのだ。寝返りを打つ。これで何度目だろう。
何処かで鶯のメロディに似た調子で丑三つ鳥が鳴いている。雨は止んだらしい。満遍なく濡らされたアスファルト道路の表面を車のゴムタイヤが擦っていく音が遠くから聞こえる。その音は大きな竹の笊に乾いた小豆をたくさん入れてごくゆっくりと揺らすよう。波の疑似音。波打ち際か。耳を澄ましているわけでもないのに、やけに大きく響く。ああ・・・ けれど眠れない。まるで味の抜けたガムでも咬んでいるような変な気分だ。未練なんて苛々しながらガムと一緒に吐き捨てた筈なのだ。
寄せては引くようにまたぼんやりとしたなにかの残骸が思考を徘徊し始める。もううんざりだ。生欠伸をする。気分が悪い。何処もかしこもぬるまった布団からはみ出しながら、私はシルエットで縁取られた部屋を見渡す。ぼんやりとした人影のようなものに一瞬動揺しながらもそれが自分で脱ぎ散らかした服の山だと気付く。冷や汗と一緒におかしさが込み上げてきた。一人でなにをしているのか。
悔いてはいない。けれど、彼はなにも悪くはない。彼の罵倒したように私が彼を掻き回して引きずり回したのだ。自分の為に。自分の受けるだろうダメージを少しでも和らげる為に。結局今等なにも見えてはいなかった。何処かで待っていて不意に物陰から飛び出してくるだろう辛い未来ばかりに支配されて、私は先の事しか見てはいなかった。己を守る為に足掻いている身と、既に守られているくせに気付かない身。どちらが先に傷つくか。どちらが最後に傷つくか。どちらが切り出すか。そんなくだらない緊張状態。そんな事にしか彼と一緒にいる自分を見出せなかったのか。そうかもしれない。私は心底疲れたのだ。この夜の静寂を1人で過ごすよりも彼と2人で車に乗っている事の方が。いくら思い返しても色が褪せ、全てがモノクロに暮夜けている世界。生々しく鮮やかな色彩はどこにもないのだ。まるで夢のような。それにしては嫌な香りの込み上げてくるような。物事の終わり独特の物悲しい香り。
その香りを避ける事もせず敢えて私は鼻をひくつかせる。久しぶりのその香りは微かな哀愁が入り交じり、切ない懐かしさすら覚えてしまう。頭の後ろから入り込んで心をつねられるような暮色。さすがに深呼吸までしようとは思わないけれど。
カチコチ カチコチ
ため息が溢れる。いつか誰かがため息1つつくと幸せが1つ逃げていくのだと言っていた。だとしたら、私と彼の幸せは逃げまくってしまったのだ。あの間の膨大なため息は、朦朧とするような快感だけに支配されたセックスの時に口走る台詞よりも耳元に残っているのだ。
再び雨が降り出した。まばらなお客のやる気のない拍手の音。もう舞台は終了したのだ。再び幕が上がる事はない。二度とアンコールはないのだ。だのに拍手の音はいつまで経っても止まない。地団駄すら踏みたくなる。
夢の中で崖を渡ろうとして実際に足を動かして目が覚めるように、私は何度か足を苛立ち紛れに布団の上で打ち付ける。勘弁して。私はもう無理だったんだ。そんなに責めないで。少しくらいよくやったと誉めてくれてもいいじゃない。
悪寒が走る。白々しい。まるでいつかのように体を丸めて蹲って悲しみを表現するかのように、やりきれない気持ちを吐き出そうとしている自分自身に。また、重さの増していく脳天で記憶と思いの糸がこんがらがるのだ。今頃彼は、きっと。
いつのまにか瞼が開いていて眼球が生気を発散させて乾いていくのを感じた。生気、いや違う。きっと未練に似たなにかなのかもしれない。それにしても暑い。
こめかみに捻り込まれてズキズキと不快感を放っているものは彼の怒りか、それとも憎しみか。私に苦痛を与えたいのか。そんな心配等は無用なのに。こんな滲みっ垂れたものより意識不明になる程の苦しみを彼から体得したのだから。無機質に開きっぱなしの目が堪えきれずに涙を流す。潤う筈のない心。
カチコチ カチコチ
時の崩れる音は止まらない。無心の涙も止まらない。このまま夜明けを迎えるのかもしれない。けれど、それでも構わない。もう構わない。傷付いた彼の為に私が出来るのはそのくらいしかないのだから。所詮、言葉はなんにもならなかったのだから。嘘をついたつもりはないけれど、結果的に嘘をついたと取られて仕方ないのだ。
真実等があったのだろうか。私に見えなかっただけで、彼の中にはあったのだろうか? わからない。わからない事が多過ぎて、わからないままでも気楽にいれたわけじゃなかった。でも、私は彼の多くを知りたいとも思っていなかったし知りたくもなかった。知り尽くしてしまう退屈さ、面倒臭さを知っていたくせに不安から彼にあれこれと聞き出してしまい、彼には私を知ってもらう事を望んでいた矛盾はやはり一言で言えば自分勝手で相手の気持ちを考えられないという事なのだ。・・・そんな事、言われなくても知っていたじゃないか。
作品名:6月 trilemma兎 作家名:ぬゑ