灯夫(とうふ)
遠くに小さな丸い点がほのかに揺らめき始める。それはゆっくりと右、左と交互に、まるで長いまどろみから目覚める寸前に味わう、間延びした感覚の呼応に似た伝わり方で、山を下ってきた。私はその後ろから広がってくる闇の大きさと、灯される光の小ささとに目眩を感じながら、一体ここまで光が届くのはいつになるのだろうかと、現実的な疑問を懐で転がしていた。天上が暗雲に塞がれるのを待って、光は進んできているようだった。あたかも、僅かな星明かりですら、この小さな光は薄れてしまうのだとでもいうように、細心の注意をはらって、おずおずと、光は坂を下ってくる。右、左。右、左。私は後ずさりして、ベンチへ腰を下ろした。両手を後ろについて、ぐったりと体の力を抜いた。しかし目だけは先程までと同じ真剣さで、光を見つめていた。目を逸らすことが出来なかったのだ。精神は、すっかり弛緩していた。それはまさに夢を見ているような感覚であった。
いつか、コツコツと、足音が聞こえてきた。時折何かを引きずるような音もする。私はもう少しで眠り込むところだった事に気づいた。足音はもう数十メートル先にまで迫ってきていた。人が近づいてくる。自分の背丈の倍もある長い棒のような物を肩に立てて、もう片方の手には、先端が赤く光った剣を持っている。私の体に緊張が走る。だが、逃げだす為にはもう相手が近づきすぎていた。
相手、それは男である。痩せた小さな老人のようである。目深にかぶった帽子から飛び出した髪は、灯火を透かして銀色だ。そして、長い棒と見えたのは、木製の梯子だった。
「こ、こんばんわ」
私は震える声で挨拶をしてみた。だが老人は私を一瞥もせず、ベンチの後ろの街灯に梯子を立てると、ギシギシと軋ませながら昇っていった。私はベンチの上で思い切り頭をそらして、老人の仕事を見守った。
街灯のホヤが老人の頭の高さと同じになると、老人は左手でホヤの底にある鋳型の基台を一回り撫で、真鍮で出来たつまみを捩じった。するとそこが扉のように手前に開き、さらに老人はその中に指を突っ込んで、何かを回しているらしかった。それから、今度は右手の剣のような物を慎重に基台の内部に射し入れた。すると、ボウという音がして、老人は暖かな光に包まれたのである。
「灯夫だったのか!」
扉を閉めるまさにその時、私はあの写真の景色を目の当たりにしていた。
老人は元通りに扉をしめると、ゆっくりと梯子を下り、反対側の街灯へ向かって歩いていった。
この通りにガス灯がいくつ設置されているのか知らない。だが、それに灯を灯すのはすべてこの老人の仕事だったのだ。同じ速さで、同じ動作で、老人は何十年と、この仕事を繰り返しているのだろうか。夜ともなれば、人通りも稀なこの通りを照らす為だけに、老人は峠から海までを往復するのだ。
私は尊敬の念で老人を見送った。そして、昼間に話した老人が、何故、こんな珍しいガス灯夫のいる街灯を、特徴の無いものだ、などと言ったのだろうかと考えた。そして、この老人が何者なのか、尋ねてみたくなった。が、すぐにそれは無駄かもしれないと思いなおした。
自分は異邦人だから、これを珍しいと感じるのだ。土地の人にとっては目に止める事も無いほど当たり前の事なのだろう。近所の郵便ポストをいつ誰が回収しているのか、知っている人は少ないはずだ。この町では、この老人の存在はあまりに当たり前で、もはやいないのと同じ存在なのではあるまいか。古くからこのガス灯があると、老人は言っていた。ならば、灯夫も同じくらい古くからある職業なのに違いなかった。尋ねても無駄だ。この灯火は、町の人々とは無関係に灯り、無関係に消され、いつの間にかホヤの曇りが無くなっいたり、割れていた筈のランプが修復されていたりする。それが当たり前なのだ。そしてそれを当たり前だと思う事そのものが、当たり前の事なのだという事に、私は愕然としていた。
「跡を継ぐ者はいるのだろうか。あの老人がもしこの仕事を続けられなくなったら、この町からガス灯が無くなるのだろうか。そうなって初めて、町の人は、老人の存在、ガス灯の存在に気づくのだろうか。老人が供していた灯りの明るさを知るのだろうか」
それはあまりにも悲しい想像だった。そしてこの想像は、あの写真を見たとき、あの写真を思った時に確かに感じていた筈の、忘れていた最後の感情だったような気がした。
灯火は真っ黒な海へと、向かっていた。私は、運命というものを信じようと、思った。そして、老人が再びこの道を登ってくるのを、ガス灯の下で待ちつづけた。
おわり