灯夫(とうふ)
一枚の写真にひかれて旅行先を決めた。調べたのは撮影地点に至る交通機関だけだ。
「その地に運命的な何かを期待していない、と言えば嘘になるけどね……」
そんなことを胸の内につぶやき、
「でも、たいていは写真の中にだけ存在する風景だったりするものだからね」と続けていた。
私はその地を探して彷徨する時間を見越して、小さな鞄一つと、新品の帽子と共に、朝早い列車に乗りこんだ。
目的の駅で降り、改札を抜けて、急な坂道を海の眼前まで下って振り向くと、その写真の場所が、呆気なく展開していた。 まだ、昼食の時刻を少し過ぎたところだ。
道すがら、休憩できそうな店は見当たらなかったし、この町へ来た目的を、その他のことで薄めたくもなかった。今、白日の元に晒されているその場所は、まさに写真に写っていた通りの町並みでありながら、あまりにも明白過ぎるという理由で、まるであの写真とは違う街路、つまり、月並みな旅情を備えた小道にしか見えなかった。私は真上から照らす太陽の下、ただ呆然としていた。写真の情景は、夕暮れだった。今にも嵐となりそうな雲が山よりも聳え、手前へとのしかかろうとしている。そしてまだその黒雲に覆われていない部分は、晴天の日の夕焼けそのままに焼け落ちて、雲の輪郭をやさしいミルク色がなぞっていた。地上は真っ暗と言ってもいいほどで、人も建物ものっぺりとした闇に塗りつぶされていた。そんな中に、街路の両脇にぽっかりと浮かんだ丸い光が、はるか彼方の雲の上まで延々と続いていて、写真の一番手前には、灯火を両手で捧げ持った老人が浮かんでいた……
私は辺りを見渡した。あの灯火がこの街灯だったというのは間違いがない。それは海から山の頂上まで続くこの一本道の端から端まで連なっていて、そのせいで、光が空に昇っていくように見えたのだということも判った。だが、そんな事を知りたいがために、ここまで来たわけではなかった。行き交う人も、通り沿いの水路で涼やかに揺れる柳も、白く輝く石敷の道も……。
私が来たかったのはここだったのだろうか。本当にここで良いのだろうかと不安になりながら、何かを忘れているのではないかと、しきりと記憶をまさぐっていた。ただこれだけの景色なら、有給を一日費やしてまで、やってくる価値があるとは思えない。
外出嫌いの私が旅支度をしているのをみて、妻は目を丸くしていた。「一緒に行きたい」と言いださない彼女の性質を私は愛していたが、「珍しいわね」と揶揄される程には遠慮が無くなっていた。三年も経てば、そんなものかもしれないと思う。ふと、「倦怠」という言葉が思い浮かぶ。私は背中の汗を不快に感じた。
みな、ゆっくりと歩いている。サラリーマン風の人間は一人もいない。和装の人が三割程いて、その人達はこの町の古くからの住人らしい。水路を魯船が昇っていく。シャツをはだけた老人が、耳にイヤホンを指して、じっと目を閉じて座っていた。私は何故だかその老人に声をかけてみた。自分から誰かに声をかけたことなどあまり無かったが、旅の気楽さが、そんな浮ついた気分を後押ししていたのかもしれない。
「こんにちは」
老人は、片目を少しだけ開いて、それからこくりと会釈らしきことをしてみせた。迷惑そうではなかったので、私は大いに安心した。
「良い天気ですね」
「うん。昔はいつもこんなだった」
老人は目を閉じたまま応えてくれた。私は老人が座っている水路脇の石段に並んで腰を下ろした。
「よい町ですね」
「あんたどこから来た? そうかい。遠くから良く来たね」
イヤホンからひっきりなしに男性の声が漏れてくるが、何を言っているのかは聞き取れなかった。老人は私の声と、イヤホンの音声をしっかりと聞き分けているらしかった。
「何を聞かれているのですか?」
「これか。競馬だよ。馬は好きかね?」
「いえ。やったことはありません」
「そうかい」
老人はそういって黙り込んだ。スタートしたようだ。私は声援が静まるまで目の前の水路を眺めていた。と、老人が膝を打ち、うーん。と唸った。
「どうでしたか?」
「ああ。取れなかった。逃げていたんだがね。残念無念だよ」
老人は両目を開いた。そしてイヤホンを耳から抜き取ると胸のポケットから薄べったいラジオを取り出して、そこにくるくると起用に巻き付け、再びポケットにしまった。
「一人かね」
「はい。酔狂なものですから」
「確かに、変わっているな。一人旅でここを選ぶというのは。何か目当てがあるのかな」
私は曖昧に笑ってから、言った。
「あの街灯が点くところが、どうしても見たかったので。でも少し早く着きすぎました。
「へえ。どうということのない街灯だと思うがね。随分古いものだというのは確かだが、取り立てて特徴があるというものでもない。都会の人の考えることは、判らんな」
老人は大きく前傾し、それからジャンプをするように腰をしゃんと伸ばして立ち上がった。顔は笑っていた。私も照れて笑った。
「じきに点くだろ。満足なさるといいが。遠くからのお客さんだからな」
「ありがとうございます。あの…… ありがとうございました」
老人は、のんびりと、山の方へ歩いていきながら、振り返らずに手を腰の脇で二三度軽く振った。老人は陽炎の中へだんだん溶けていくように消えていった。
「あの写真の老人を、あの人だと、私は思ったのかもしれないな」
もちろん、それが都合のいい感傷だという事は判っていた。だが旅先での感傷は許されるような気がした。ふと妻の顔が浮かび、何か土産を買っていこうという気になった私は、水路沿いをゆっくりと散策し始めた。
山間の夕暮れは突然に訪れた。和菓子やの店先でこのあたりで作るあんこの話を聞いていて、ふと振り替えるともう、自分の足元がおぼつかないほど薄暗くなっていたので、私は土産の宅配を頼んで先程の場所へと駆け戻った。
「小豆も砂糖もみんな取り寄せてましてね、まあ自慢できるもんといったら水くらいなものですか。お酒つくるには湿度が足りないとかでね、何するにしても美味しいんですけどね、お水がいいですから。でも、あなた、名物が水だけじゃねえ。これ、持っていきなさい」
そう言って渡された湧き水を一息で半分ほど飲み干すと、動悸は嘘のように静まった。辺りも静かだった。昼間よりもしっとりとした夕暮れの大気は紫色だった。いつの間にか空を覆い始めた黒雲は、縁を赤黒く焦がしてじょじょに夜空を蝕んでいく様子だ。私は雲と一体となった山の方へ目を凝らした。
「その地に運命的な何かを期待していない、と言えば嘘になるけどね……」
そんなことを胸の内につぶやき、
「でも、たいていは写真の中にだけ存在する風景だったりするものだからね」と続けていた。
私はその地を探して彷徨する時間を見越して、小さな鞄一つと、新品の帽子と共に、朝早い列車に乗りこんだ。
目的の駅で降り、改札を抜けて、急な坂道を海の眼前まで下って振り向くと、その写真の場所が、呆気なく展開していた。 まだ、昼食の時刻を少し過ぎたところだ。
道すがら、休憩できそうな店は見当たらなかったし、この町へ来た目的を、その他のことで薄めたくもなかった。今、白日の元に晒されているその場所は、まさに写真に写っていた通りの町並みでありながら、あまりにも明白過ぎるという理由で、まるであの写真とは違う街路、つまり、月並みな旅情を備えた小道にしか見えなかった。私は真上から照らす太陽の下、ただ呆然としていた。写真の情景は、夕暮れだった。今にも嵐となりそうな雲が山よりも聳え、手前へとのしかかろうとしている。そしてまだその黒雲に覆われていない部分は、晴天の日の夕焼けそのままに焼け落ちて、雲の輪郭をやさしいミルク色がなぞっていた。地上は真っ暗と言ってもいいほどで、人も建物ものっぺりとした闇に塗りつぶされていた。そんな中に、街路の両脇にぽっかりと浮かんだ丸い光が、はるか彼方の雲の上まで延々と続いていて、写真の一番手前には、灯火を両手で捧げ持った老人が浮かんでいた……
私は辺りを見渡した。あの灯火がこの街灯だったというのは間違いがない。それは海から山の頂上まで続くこの一本道の端から端まで連なっていて、そのせいで、光が空に昇っていくように見えたのだということも判った。だが、そんな事を知りたいがために、ここまで来たわけではなかった。行き交う人も、通り沿いの水路で涼やかに揺れる柳も、白く輝く石敷の道も……。
私が来たかったのはここだったのだろうか。本当にここで良いのだろうかと不安になりながら、何かを忘れているのではないかと、しきりと記憶をまさぐっていた。ただこれだけの景色なら、有給を一日費やしてまで、やってくる価値があるとは思えない。
外出嫌いの私が旅支度をしているのをみて、妻は目を丸くしていた。「一緒に行きたい」と言いださない彼女の性質を私は愛していたが、「珍しいわね」と揶揄される程には遠慮が無くなっていた。三年も経てば、そんなものかもしれないと思う。ふと、「倦怠」という言葉が思い浮かぶ。私は背中の汗を不快に感じた。
みな、ゆっくりと歩いている。サラリーマン風の人間は一人もいない。和装の人が三割程いて、その人達はこの町の古くからの住人らしい。水路を魯船が昇っていく。シャツをはだけた老人が、耳にイヤホンを指して、じっと目を閉じて座っていた。私は何故だかその老人に声をかけてみた。自分から誰かに声をかけたことなどあまり無かったが、旅の気楽さが、そんな浮ついた気分を後押ししていたのかもしれない。
「こんにちは」
老人は、片目を少しだけ開いて、それからこくりと会釈らしきことをしてみせた。迷惑そうではなかったので、私は大いに安心した。
「良い天気ですね」
「うん。昔はいつもこんなだった」
老人は目を閉じたまま応えてくれた。私は老人が座っている水路脇の石段に並んで腰を下ろした。
「よい町ですね」
「あんたどこから来た? そうかい。遠くから良く来たね」
イヤホンからひっきりなしに男性の声が漏れてくるが、何を言っているのかは聞き取れなかった。老人は私の声と、イヤホンの音声をしっかりと聞き分けているらしかった。
「何を聞かれているのですか?」
「これか。競馬だよ。馬は好きかね?」
「いえ。やったことはありません」
「そうかい」
老人はそういって黙り込んだ。スタートしたようだ。私は声援が静まるまで目の前の水路を眺めていた。と、老人が膝を打ち、うーん。と唸った。
「どうでしたか?」
「ああ。取れなかった。逃げていたんだがね。残念無念だよ」
老人は両目を開いた。そしてイヤホンを耳から抜き取ると胸のポケットから薄べったいラジオを取り出して、そこにくるくると起用に巻き付け、再びポケットにしまった。
「一人かね」
「はい。酔狂なものですから」
「確かに、変わっているな。一人旅でここを選ぶというのは。何か目当てがあるのかな」
私は曖昧に笑ってから、言った。
「あの街灯が点くところが、どうしても見たかったので。でも少し早く着きすぎました。
「へえ。どうということのない街灯だと思うがね。随分古いものだというのは確かだが、取り立てて特徴があるというものでもない。都会の人の考えることは、判らんな」
老人は大きく前傾し、それからジャンプをするように腰をしゃんと伸ばして立ち上がった。顔は笑っていた。私も照れて笑った。
「じきに点くだろ。満足なさるといいが。遠くからのお客さんだからな」
「ありがとうございます。あの…… ありがとうございました」
老人は、のんびりと、山の方へ歩いていきながら、振り返らずに手を腰の脇で二三度軽く振った。老人は陽炎の中へだんだん溶けていくように消えていった。
「あの写真の老人を、あの人だと、私は思ったのかもしれないな」
もちろん、それが都合のいい感傷だという事は判っていた。だが旅先での感傷は許されるような気がした。ふと妻の顔が浮かび、何か土産を買っていこうという気になった私は、水路沿いをゆっくりと散策し始めた。
山間の夕暮れは突然に訪れた。和菓子やの店先でこのあたりで作るあんこの話を聞いていて、ふと振り替えるともう、自分の足元がおぼつかないほど薄暗くなっていたので、私は土産の宅配を頼んで先程の場所へと駆け戻った。
「小豆も砂糖もみんな取り寄せてましてね、まあ自慢できるもんといったら水くらいなものですか。お酒つくるには湿度が足りないとかでね、何するにしても美味しいんですけどね、お水がいいですから。でも、あなた、名物が水だけじゃねえ。これ、持っていきなさい」
そう言って渡された湧き水を一息で半分ほど飲み干すと、動悸は嘘のように静まった。辺りも静かだった。昼間よりもしっとりとした夕暮れの大気は紫色だった。いつの間にか空を覆い始めた黒雲は、縁を赤黒く焦がしてじょじょに夜空を蝕んでいく様子だ。私は雲と一体となった山の方へ目を凝らした。