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シーラカンス
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狂人、山内義昭の供述

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母は、割とはっきりものをいうタチでした。子供に対する配慮と言いますか、その人物の年齢によって言うことを変えるような人ではありませんでした。よくも悪くも。

例えば、僕が小学校1年生の頃、テレビでシマウマの家族に密着したドキュメンタリーをやっていたのです。

シマウマの家族は群れに所属していたのですが、その中の何頭かは水を求めて移動するうちにライオンやハイエナに食われてしまいました。

それを見た僕は「シマウマが可哀想」と言いました。
しかし、それをともに見ていた母は「こんなん全然可哀想やあらへん。ライオンやハイエナの立場になってみたら、久しぶりのおまんまや。生きる為の当たり前の行為やで」
そして何故か「欺瞞や欺瞞や」と言いながら、止めていた箸を動かし、再びコロッケをついばみ始めました。(その時はちょうど夕食の時間だったのです。)
そして、食べかけのコロッケを摘み上げると、
「これだってな、ひき肉入っとるやろ?これは牛と豚の合挽き肉や。ということは、牛と豚がこのコロッケになるためにガスで殺されて、しかも切り刻まれてグチャグチャになっとるわけや。それをお前は可哀想と思うどころか、うまそうに食っとるやないか。動物は動物を食わなきゃ生きていけん。そういうことや」
切り刻まれてグチャグチャ…母は箸を片方ずつ両手に持ち、コロッケを突き刺しながら「解体」して見せました。その時の母の顔は実に意地が悪そうで、いっそ露悪的でした。

その頃の私は、その事にひどくショックを受け、自分はなんてひどい行いをしているのだろうと、自然の摂理を呪いました。

幼い子供にも包み隠さず、事実を伝えることが、(しかも母の場合、それを多少面白がっている節もあったので、)いいことなのか悪いことなのかはこの際ですから、置いておいてください。
とにかく僕はそういう母親に育てられたということです。

そう言った調子で、僕は幼少の頃から子供らしい感傷とか、優しく美しい物語からは必然的に引き離されて来ました。

そのせいだと思います。どうも子供のくせに斜に構えたところがあって、例えば学校の友達が、近所の商店街で行われた七夕のイベントで嬉しそうに短冊を飾っているのを見て、何が面白いのだと鼻で笑い、顰蹙を買ってしまったことがあります。

そんな奴ですから、何年生になってもクラスでは浮いた存在でした。でも、いいんです。一人の方が好きでしたし。

思い返せば、物心ついてからずっと今まで、僕は一人で生きてきました。表面上、誰かと何がしかの交流を持ったことはありますけど、心の隅にはいつも固い氷のようなものがあって、それは誰に対しても溶けることはないのです。それはもちろん家族に対してもです。

しかし、それは僕にとっては寂しいことでも悲しいことでもなく、むしろどこか誇らしいものでした。

話がどんどんそれていく気がするので、戻しますね。

前述した母親の、あのシマウマの話に否定的なイメージを持っていた僕でしたが、数年後にはしかしそれを受け入れていました。

それどころか、さらにそれを発展させてこう考えるようになりました。
この世は弱肉強食であり、強肉弱食でもある。それが自然のことだと。
どういうことかと言うと、食物連鎖。あれです。

草をシマウマが食べ、シマウマをライオンが食べ、そしてライオンが死ねば、それは草の養分になる。
それぞれの「死」がそれぞれの糧になり、「生」になって生きている。そこに残酷とか、可哀想なんていう感傷は存在しないのです。

お互いがお互いの血肉や屍肉を、巡り巡って食べている。これが支え合うということなのです。生きるということなのです。

このことは僕の心の隅にある氷の横に、ぴったりとくっついて置かれました。それを踏まえた上で、聞いてください。

僕は小学校5年の頃にある事件を起こしました。いえ、最終的には巻き込まれたといいますか…。

言っていませんでしたが、僕には義理の父親がいたのです。(実の父は僕が産まれる直前に事故で亡くなりました。)
この義父と母は、僕が3歳くらいの頃、母が働いていた定食屋に義父が客としてやってきたことから知り合ったそうです。
生まれは神奈川。実家は左官屋をやっており、そこの次男坊だそうですが、実家の手伝いもろくにせず、かといって他の定職につくわけでもなく、ふらふらと大阪に流れてきたろくでもない男でした。

母と同居するようになってからは近所の工場で働きだしたようですが、その後も、酒にタバコは当たり前、自分が気に入らなければ、平気で人の頬をはたくような奴でした。
常に酔っ払っているようで、吐く息は臭く、子供心にもこれで仕事はよく出来ているものだと呆れるほどでした。

その義父が、ふらーっと数日間どこかに行ってしまうことはしょっちゅうでしたが、ついにその時は3ヶ月以上家に帰って来なくなりました。

どうしてだか、いつもははっきり物事を告げる母も、この時ばかりは「そんなこと知らんでええ!」とピシャリと言い、それ以降だんまり決め込んでいましたので、僕はどこかモヤモヤしながらもそれ以上聞けないでいました。

当然、帰ってこないのですから生活費も入れてはくれません。そこで必然的に母が夜も働いて家計を養うことになりました。なんの仕事をしていたのかは分かりません。ただ、仕事を始めた頃から母も何日も帰って来ない日がありました。

困ったのは幼き頃の僕です。両親が不在で、食べるものもお金もありません。いつ帰るのか分からない両親を待ちながら、僕は食べ物を近所の人に恵んでもらったり、給食の余りをもらったり、時には万引きをしたりしながらなんとか食いつないでいました。

そんなある日のことです。学校から帰ってみると、台所から物音がするのです。玄関に靴はありませんでした。
最初は泥棒かと思って恐る恐る、電気もつけずに忍び寄りました。母はいませんでした。ここ一週間ほど帰ってきていなかったのです。

僕は一人ぼっちでした。そんな中での泥棒です。僕の心臓は早鐘のようになっていました。頭が割れそうに痛みます。
しかし怖がる一方で、よくうちになんか泥棒に入ったものだと、変な話ですが、少し泥棒に同情していました。
うちには盗むものなんて何もありません。金目のものもお金も食べ物すらないのですから。
あるものといえば、せいぜい僕の体操着やら教科書やらで全くお金になりそうにもありませんでした。

なので、まあ、泥棒もきっとすぐ諦めて帰るだろうと、居間の襖の後ろで、ジッとしていたのです。

しかし、いくら待っても泥棒が台所から動く気配はありませんでした。台所の戸棚をガサゴソと探る音ばかり聞こえます。

僕は不審に思って、そっと襖の影から台所を覗き見たのです。最初は暗くてよく分からなかったのですが、目が慣れてみると、それは義父の背中でした。
何故か土足で上がり込み、調味料がしまってある戸棚をなにやら漁っているようなのです。

僕は泥棒でなかったことにまずは安堵しました。そして、電気をつけ、声をかけたのです。
「お義父さん?」
僕の声掛けに義父はゆっくりと振り返りました。
何故か義父は新品の黒い革靴を履いていました。家では見たこともない靴です。