東京の男
店の前で客が足を止め、大川がいらっしゃいと声を張り上げる。盛大に手を叩く横顔に演劇少年の面影はすでになく、練物屋の店主にふさわしい所帯じみた雰囲気が溢れていた。
「じゃあ、また」
「どこかに行くのかい」
「まあね」
「そうかい。ちょっと待ってくれ」
その場を離れようとするわたしを止めて、大川は店頭に並んだ竹輪や蒲鉾の塊のなかから、薩摩揚げのパックを選り分け、ていねいにビニール袋に入れた。
「これ、持って行きな」
「いや、いいよ」
「いいって。金はいらねえからさ」
「それならますます悪い」
「いいから、いいから、ほれ」
大川は大仰に首を振って、半ば無理矢理わたしの胸に袋を圧しつけた。わたしは困り果てたが、意地を張って返すのもおとなげない。ここはありがたくいただくことにした。
「こんど、一杯やろう」
「うん。じゃあ」
右手にグッチ、左手に薩摩揚げを持って、わたしは再び小雨のなかに身を晒した。
新しいボトルを入れる頃には、皿の上の薩摩揚げも、数切れ残るほどになっていた。
「旨かったか」
「とっても」
静香が弾けるような笑顔を向けてくる。
初老の客が入ってきて、ママがカウンターを離れる。残されたわたしたちは、なんとなく沈黙した。
「初恋の味ね」
独白のように静香が呟いたので、わたしは戸惑った。思わず静香の横顔を窺い見るが、その視線はわたしではなく、グラスの縁にぼんやりと向けられていた。薩摩揚げの味が、故郷を思い出させてしまったのかもしれない。
「腹は膨れたか」
「ええ」
「終わったら、なにか喰いに行くか」
静香の長い指が、グラスの縁に付着したリップグロスを拭う。ゆっくりとわたしを見て、微笑した。
おわり。