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東京の男

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ドアマンは白人だった。つねに視線を意識しているといいたげに微笑を浮かべ、背すじをまっすぐにして立っている。金髪をていねいに耳の後ろに撫でつけ、濃いもみあげにも櫛が入っているように見える。
 わたしが近づくと、即座に目を細め、一礼した。肘を曲げ、重厚な扉を開く。
 ドアマンには視線を向けず、店に入った。アクセサリー類がディスプレイされたガラスケースに見入っていたふたり連れの女性客は、マラドーナのレプリカ・ユニフォームの上にライダースを着たわたしを見て、あからさまに顔をしかめた。互いに顔を寄せ、なにごとか囁きあっている。さすがはグッチ。客も一流である。
 白髪を染めたマネージャーは、彼女たちよりも先にわたしの姿に気づいていた。接客していた客を放り出し、揉み手でもはじめそうな勢いでそばに立った。
「お久し振りでございます、溝口さま」
 ふたり連れがほぼ同時に笑いを引っ込めた。肩に提げているバッグが贋物であることをやさしく教えてやろうと思ったが、その前に店を出て行ってしまった。田舎ものにしては、なかなかに迅速かつ賢明な判断である。
「わざわざ足を運んでいただき、光栄です。本日は、どなたかへの贈りものですか?」
「うん、まあ」
「さようでございますか。品物はもうお決まりで?」
「いや、任せるよ」
「ありがとうございます。では、どうぞ、こちらへ」
 マネージャーについて歩きながら、欠伸を噛みころす。指先で眼鏡を押し上げ、溢れてきた涙を拭った。こういった店が選ぶBGMは退屈でいけない。ロックでも流してくれれば、もうすこし頻繁に足を運んでさしあげるのだが。
 マネージャーの勧める財布の群のなかからてきとうに選んで包ませ、店を出る。いつの間にか小雨が降っていた。ドアマンが傘を差し出そうとするのを制し、代わりにタクシーを拾わせた。
 この時期の上野駅は、上京したての若者やその家族でごった返し、その押しつけがましい空気には、顔をしかめずにはいられない。
 グッチのロゴがはいった紙袋に気恥ずかしさをおぼえながら、ファーストフード店の前でたむろする若者たちの脇を通り過ぎる。アメ横を通りすがろうとするわたしを、嗄れた低い声が呼び止めた。
「雄ちゃん!」
 わたしのことだとは、すぐには気づかなかった。雨が激しくなってきて、やはり傘を受け取ればよかったと後悔しながら足どりを早めようとすると、強く肩を叩かれた。
「おい、雄ちゃんってばよ!」
 振り向いた。濃紺の帽子を被った無精髭の男が、満面の笑みを浮かべて立っていた。
「やっぱり、雄ちゃんだ」
 汚れた前掛けに両手をなすりつけながら、男はひとりで頷いている。わたしは怪訝そうな顔をしていただろう。もしかすると、迷惑だといいたげな態度だったかもしれない。無精髭は参ったなと頭を掻いた。
「おれだよ、おれ。大川。小学校んとき、いっしょのクラスだったろ」
 声を上げそうになった。
「錦ちゃんか」
「思い出してくれたかい。よかった、よかった。ひとちがいかましたんじゃねえかって、不安になっちまった」
 白髪の混じった髭を撫でながら、大川は皺で顔をくしゃくしゃにして笑った。

「あら、先生。いらっしゃい」
 鮮やかな緑色のドレスを着たママは、わたしのための席に手早く氷とグラスをセットした。平日で、おまけに悪天候である。店は閑古鳥が鳴いていて、手ずからウイスキーを注いでくれた。
「先生はやめてくれよ」
 苦笑いしながら、提げていたビニール袋をカウンターに置く。
「これ、お土産」
「あら、なにかしら」
 ビニール袋を覗き込み、目を丸くする。
「薩摩揚げ?」
「こういう店には似あわないかな」
「そんなことないわよ。つまみにいいじゃない。ちょっと待って」
 ビニール袋を持って、ママが店の奥に下がる。ウイスキーに口をつけながら待つと、暖簾を分けて静香が顔を出した。
「いらっしゃい、先生」
 わたしは諦め顔をつくって、静香の酒をつくってやろうとグラスを取った。
「いいわよ。あたしがやるから、お気を遣わないで」
 わたしの手からグラスを奪って、静香は手早く水割りをつくる。男は気に入った相手のためにグラスを満たしてやりたいものだが、水商売をはじめてまだひと月とたたない静香にはそこのところがわかっていない。しかし、擦れきっていないところは好ましいといえた。
 アイスペールを引き寄せる静香の手に、グッチの袋を寄せる。
「なあに」
「誕生日だろう」
「来月よ」
「その頃は、締め切りに追われているはずだからな」
「そうなの。でも、嬉しいわ。ありがとう」
 不服そうに唇をすぼめたのは一瞬で、すぐに眩しげな笑顔を浮かべる。
「開けてもいい?」
「開けなくては、持って帰る」
「いや、いや。速攻で開けちゃう」
 ママにいくら注意されても治らない若者ふうの言葉をつかったのには気づかず、静香は速攻で包みを開いた。
「わあ、すてき!」
 最新作の長財布を掲げ、静香は無邪気にはしゃいでいる。
「こんないいもの、いただいてもいいのかしら」
「大事につかってくれよ」
「家宝にするわ」
「原稿料3か月ぶんだからな」
「もう、嘘ばっかり」
 痩せた肘が脇腹に食い込む。悪い気分ではない。
 ママが戻ってきた。電子レンジで加熱した薩摩揚げを小皿に分け、わたしたちの前に置く。
「薩摩揚げ!」
 静香が大仰な声を上げる。
「好きか?」
「もちろん。あたし、鹿児島だもの」
「そうだったか」
 誕生日はかろうじて記憶していたが、出身地まではおぼえていなかった。九州男児というわけか。実家ではさぞかし嘆かれていることだろう。あるいは、すでに縁遠い存在かもしれない。穿鑿する気はなかった。ママもくわえて乾杯し、薩摩揚げをつついた。
「先生は東京なのよね」
「うん。このちかくの生まれなんだ」
「あら、そうだったの」
 ママが意外そうに眉を上げる。
「じゃあ、生粋の江戸っ子ね」
 江戸っ子。最近では聞き馴染みのない表現だ。わたしは奇妙な羞恥をおぼえ、薄くなりかけた琥珀を啜った。

 わたしの生家は御徒町にある。家がちかく、学校もおなじであった大川錦治とは、小さい頃によく遊んだものだった。
「元気そうだなあ」
「そっちも」
 大川の家は代々続く練物屋であった。さきほどは気づかなかったが、濃紺の帽子には店の名前がプリントされている。わたしの視線に気づいた大川が、照れくさそうに肩を竦める。
「実家を継いだのよ。もう、そうだな、20年ぐれえになるかな」
「そうか」
 大川は俳優志望で、5年生の頃から三島由紀夫の本を熱心に読んでいた。たしか中学を出てすぐに養成所に入ったはずだったが、志半ばで夢を諦めたのだろう。
「雄ちゃんは、作家になったんだってな。同窓会で、噂だったぞ。下町のナポレオンだってな」
 わたしはいいちこか。苦笑いして、首を振った。
「いや、しがないもの書きにすぎんよ」
 口にして、少々厭味に聞こえたかと反省した。わたしが脚本を書き、大川が演じる。遠い少年時代の約束など、おぼえてはいまいが。
「たまには、こっちのほうにも顔出しな、な」
「そうだな」
 曖昧に頷いてみせる。生まれ育った土地とはいえ、年中元旦のようなこの慌ただしさにはあまり馴染めない。
作品名:東京の男 作家名:新尾林月