青い花
視界はもうすっかり青と白と黒に塗り分けられてしまっていた。緩い坂道を下り続け、昼と夜の感覚も失った。手足はもうほとんど感覚を失っている。布と毛皮で顔の下半分をしっかりと被っているのに、冷気のために喉も鼻もひりひりと痛んだ。睫毛も前髪も凍ってぱりぱりと音をたてた。
先頭を歩く副隊長が片手を上げて歩みを止めた。全員がのろのろと止まる。十人ほどの隊員の、苦しい息の音だけが閉ざされた空間に響く。誰もが、息を押さえて耳をすました。ハルは耳を切る冷気をこらえて、毛皮の耳覆いをはずした。
「……聞こえる。笛だ」
おお、と他の隊員が嘆息した。
「灯をしぼれ。“広間”までもう少しだ」
列の後尾から隊長の指示が聞こえた。灯火係は火口を締め、油火の灯りを半分ほどに縮めた。視界の青と白の割合がぐっと下がった。
「足もとに気をつけろ。ゆっくり行け」
足元は氷の坂である。滑ったらどこまで落ちるかわからない。
「ハル、耳は大丈夫か」
後の隊員が声をかけてくれた。ハルは黙ってうなづいた。
急激に奪われた熱を回復しようと、耳に血液が集まってきている。血の流れる音が、耳覆いにふさがれてごうごうと頭の中に響いた。
少し進んでは立ち止まり、耳をすまして笛の音を確かめる。何度かそれを繰り返したあと、隊長は懐から土鈴を取り出して振った。
かろんかろんと乾いた音が、坂の下方の暗闇に吸われていく。呼吸をこらえて耳を澄ましていると、闇の底から先刻までとは違う調子の笛が返ってきた。相手もこちらに気づいたのだ。
「よし、もうすぐだ。灯は最小に。慎重に進め」
屏風のように通路をふさぐ巨大な氷の塊をぐるりと回ると、そのむこうがぽっかりと開けている。ここが、交易のための“広間”だ。
隊長はもう一度土鈴を鳴らした。
「リンの隊だ。毛皮と植物を持ってきた。花もある。いま、灯を消す」
小さな灯も吹き消された。が広間は闇にはならない。壁と天井の氷が薄青く発光しているように見える。はるか地上にふり注ぐ太陽の光が、透明度の高い厚い氷の中を複雑に反射しながら、この深い地の底までどうにか届いているのだ。
広間の逆端で、ものの動く気配がした。
「こちらはラヅ。氷と夜光石、香石がある。交易を求める」
「交易を求める」
おずおずと互いの距離をつめる。まずはそれぞれの隊長が、広間の中央へ進み出る。ハルたちの隊長・リンは大柄な体を厚い毛皮でもこもこと覆い、まるで熊のように見える。相手はそれに比べるとずいぶん小柄で、ハルたちの常識からすると子供のような体格だった。白く華奢な体には薄い布一枚をまとったきりである。薄く発光する石の腕輪をはめた手で、短い笛をリンに差し出した。リンは土鈴を差し出した。それぞれの楽器の交換が終わると、広間の空気はふっとゆるんだ。隊員たちはそれぞれ自分の抱えてきた商品を氷の床の上におろし、荷をほどく。あちらの隊員たちは協力して氷の塊を押し出してきていた。
ハルの荷は軽い。香りの強い植物の葉や色の鮮やかな花びらが商品である。地底の冷気でぱりぱりになった商品を、壊さないよう細心の注意をはらって箱から取り出し、毛皮の上に並べた。
「いい花があるか」
小柄な客がさっそく寄ってきた。
「今年は香りの強い草がたくさん取れた。赤い花を欲しがる人が多いというから、多めに持ってきてみたが……」
「ああ、これは立派だ」
白い細い指を一番大きな赤い花にそうっと伸ばして、客は微笑したように見えた。
光のない地の底に暮らす彼らには、この広間でもまぶしすぎるのだそうだ。だから客はだれもが頭からすっぽり光除けの覆いを被っている。そのせいで表情は口許しか見えない。
「これならすばらしい婚礼になる。これと……これももらおう。香草を試させてもらっていいか」
「どうぞ」
小さな箱を顔に近づけて深く息を吸う。鼻はハルたちと同じように顔の中央にあるようだ。
「いい氷の匂いに合うね。もっと熱い匂いのはない?」
「そんならこれか」
彼らの言葉にもだいぶ慣れた。「熱い」というのは、ハルたちの言葉に直せば「甘い」に近い。彼らは客人のもてなしのために、室の空気に香りをつけるのだそうだ。太陽の光のない地下には草は生えない。だから地上産の香草はたいへんな贅沢、最上の歓迎になるのだとか。
赤い花は彼らの婚姻に欠かせないものらしい。地上での宝石に似た価値を持つものらしいので、客の見る目も厳しい。花びらが折れていたり、虫食いがあったりしてはいけないが、大きく、色が鮮やかで濃いものならばたいへんな高値がつく。花は栽培したものではなく、自然に生えているものを摘んでくるだけでよい。
「これもいいね。両方もらおう。夜光石でいいか」
客は親指の先ほどの夜光石を二つ差し出した。ラヅが腕輪にしていたのと同じ、暗い中で青白く発光する地底の宝石である。
「立派な石だ。大粒二つでは多すぎる。小粒はないか」
「欲のないことだ」
客は手を広げて、大小さまざまな大きさの夜光石を並べて見せた。ハルはその中から、大粒のひとつと小指の爪より少し小さいくらいの粒をひとつ取った。
「いい交易をした。また次も来るかい?」
「ええ、多分」
「じゃあまた寄らせてもらおう。夜光石のほかに欲しい石はないか?」
「氷柱石を欲しがってる客がいる。綺麗な八角で、できるだけ透明なのがいいそうだ」
「あんなもの何にするのかね」
「照明の飾りにいいそうだ。もし手に入れば、頼みたい」
「そんなものいくらでも手に入るよ」
こうして次々に客が来る。ハルの軽い商品は気持ちよくさばけて、地下にしかない宝石類と交換された。
これを地上で現金化する。そうしてハルは生活している。
商品がさばけてしまうと、ハルはあたりを見まわした。
(……来ていないのか)
同じような覆いを被った彼らと、毛皮でふくらんだ隊員が品物をやりとりしているが、ハルの探す姿は見当たらない。
(せっかく持って来たのに)
毛皮の中に、並べなかった品物がひとつある。もともと売るつもりはなく、あの人に会えたら渡したいと思っていたのだ。今日の交易で約束をしていたわけではない。会えなくても仕方がないと思ってきたはずだった。それでもがっかりしてしまった。
もっと重い品物を運んできた隊員たちはまだ商売に忙しい。氷を買った隊員たちは、溶けないように毛皮と油紙で氷を梱包するのに忙しい。あの人のことは諦めて手伝おうか、と腰を上げたら、名を呼ばれた。
「ハル!」
「今日は来てないのかと思った」
「来るよ、交易、好き」
「よく売れた?」
「うん。ハルは?」
「完売」
「お互いよかったね」
広間のすみで話しこんでいる二人に目を止めるものはいない。皆、それぞれの商売が忙しい。
「リダ、これ」
毛皮の中に大事に抱えてきたものを差し出す。
「あげる」
「なに、これ。地上の宝石?」
「木の実。花のあとにできる」
凍らないように肌近くつけてきたつもりだったのに、柘榴の赤い実はかりかりに凍り付いてしまっていた。
「食べられるよ。少し涼しい味がする」