小説を書くこと
9.ラストをどう書くか 2019/10/06
ひとつ物語を書き終えて、思ったことをいくつか。
物語の最後をどう締めるか、小説を書いたことのある人なら一度は悩んだことがあると思います。短編の場合、ラストのシーンが決まっていてそこに向かって書くことも多いですが、長編の場合、書いているうちにラストがどんどん変化していきます。最初は意のままに書けていた登場人物が勝手に動き出すからです。
ちゃんとラストシーンが決まったから書き始めたのに、終盤にさしかかると「いや……こいつはこんなこと言わないな」とか「ここまで来てその行動はおかしいな」とか、予定通りにいかないことが多くなってきます。それは登場人物がその架空の世界でちゃんと生きているということなのでいいのですが、ラスト、予定通りに行ったことがほとんどありません。
ラストが予定と真逆になったので最初から書き直したことも何度もあります。
どこに帰結するかは作者が思う存分悩んで満足するところに落ち着けばいいと思うのですが、世間一般(もしくは文学の世界)はそういうわけにはいかないようですね。
先日、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』を読み終わりました。(ここからは内容に触れる部分もあるので、これから読む方はそっと閉じてください)
音楽仲間に貸してもらっていたのですが、なんと読むのに半年もかかってしまいました……
プロの音楽家を目指すピアニストたちのコンテストの話――そそるじゃないですが。読まないわけはいきません。
けれど読み始めてすぐに……寝てしまう。
あきらめずにまた開いては……集中力が切れる。
なんでか、なんでこんなにしんどいのか、クラシックを知らないからか、それにしたって……また寝てしまった!
本屋大賞と直木賞を取り、大絶賛されている『蜜蜂と遠雷』が退屈なわけないじゃないですか……きっとどこかの時点で急激に引き込まれる……
……こともなく、ラストにがっくりして終了してしまいました。
音楽の話なのに退屈でしかたなかったのは、きっと恩田陸さんに見えている音の情景が私には見えなかったからです。そして演奏中の抽象的なイメージが長い長い……聞いている側ではなく、ピアノを弾いているコンテスタントのイメージです。
コンクールに至るまでの過程やコンテスタントの生育歴があまり詳しくは書かれていなかったので、私には向いていませんでした。コンテスタントそれぞれのイメージ、というよりは私には全部恩田陸さんに見えているイメージに思えました。そう感じるかどうかは人それぞれなんでしょう。
そして、アマチュアでプロには程遠い人間ですが、音楽をやっている身としては、演奏中にそんなに情緒的で美しい世界は見えない……ていうかそんなの感じてる余裕ない、と思ってしまったからでしょうか。風間くんの主観なし、淡々とした描写はとても好きでした。演奏中はどちらかというと、その場でしか味わえない音の反響や観客の反応、仲間がいるなら本番でしか味わえないグルーブ(音やリズムのノリのこと)や音の響きあい方を楽しんでいた気がします。
で、なんで『蜜蜂と遠雷』の感想をぐだぐだ書いているかというと、ラストが私はだめでした。ピアノコンテストの話なんだから、最後は誰が優勝したのか、優勝した人、落ちた人、観客、そんな反応が見たいんです。なんならその後日談も読みたいです。
けれど、ラストは最終選考の発表を待っているところで終わってしまいました。ええっ!結果はどうした!とあせってページを繰ると、最後に一覧表という形で順位が記されていました。
……え? そうなの? と私は肩透かしをくらったのですが、先日、直木賞の選考員の方のコメントを呼んで、そういうことかと思いました。
選考員「頼むから結果発表の場面まで書いてくれるなよ、と危惧していましたが、そうはならず、一覧表という形で終わらせてくれたのでほっとしました(というような内容でした)」
……え? そうなの?(二回目) 書いちゃいけないの?
恩田陸さんはそういう考えの選考員がいることを知っていて、直木賞を取りにいったわけですね。驚きました。
けどね……私は結果発表のシーンまで読みたかったあ! そういう終わり方が直木賞を取るトレンドだとわかっていても、やっぱり読みたいよ!と叫びそうになりました。
このことに関しては絶賛している方もおられるので、優れた手法なのでしょう。
だとしても、そうだとしても、私は最後まで(おまけまで)書いちゃうなあと思いました。
みなさんは物語の結末、どのあたりで締めるのが好みでしょうか?