朔の海に散るは生也
冬の海にしては珍しく、波は静かな夜だった。
傍らのぬくもりが急に消えた感覚に、私は目を覚ました。狭い部屋の中を薄明かりが照らしていて、その下で、軍人として恵まれた体格の青年が、身支度を急いていた。
枕元に時計を探せば、日の出にはまだ遠い時分。けれど眠い目をこすってよくよく時計の針が指す時間を見れば、彼が急ぐ理由がわかる。
「あ、大尉起こしちゃいましたか。すいません」
私が寝台の上で身じろぎする音に気づいたのか、詰襟のホックを止めながら彼が苦笑いをした。
「もう、見張りの交代時間ですか」
「ええ。でも大尉はもう少し寝ててください。昨夜は激しかったから、大尉の朝の勤めに遅らせてしまったら、申し訳が立ちません」
なんでもないことのように朗らかに笑われて、思わず私は赤面してしまった。布団の下に隠れた己の裸体と、昨夜の痴態が脳裏に蘇って、頭を抱えたくなる。演習を兼ねた哨戒任務の帰りとはいえ、航行中の軍船内で恋人と肌を重ねると言うのは、あからさまにしていい事態ではない。
照れ隠し代わりに一つ咳払いをして、私は彼から背を向けた。
「早くしないと遅れますよ、ミューゼル少尉」
悪態をつくには体が重く疲れ切っていて、そんな体力もなかった。彼が言うとおり、せめてもう少し眠らせてもらおうと思ったのもあったのだが、けれどそんな私の態度に、相手は機嫌を損ねて不貞腐れたのだととったらしい。
「怒ってるんですか? まだ任務中だから。でも、今回も何事もなかったんですよ。目と鼻の先で演習していたっていうのに、南の奴ら怖気付いて何もしてこなかったじゃないですか」
彼が寝台のへりに体重をかけて私の顔を覗き込む。二人分の重みに寝台が軋んだ音を立てた。
「怒っているわけじゃありません。純粋に眠いんです。何処かの誰かさんが加減知らずなものですから」
「でも、気持ち良さそうでしたよ、大尉も」
全く悪気もなさそうな気の抜けた笑みに、全身から力が抜けた。
「……。まだ領海に入ったわけじゃないんですから、そんな締まりのない顔を兵たちに見せないように」
「はい。俺の笑顔は大尉だけのものです」
そういうことを言っているのではないのだと言おうとして、しかし唇を奪われ、塞がれた。甘い口付けはこんなときでも心地が良い。いい加減にしないと本当に遅れるだろうにと抱き寄せられた胸板を押し返せば、耳元でそっとささやくように告げられる。
「大尉、本国に戻ったら俺たち一緒に暮らしませんか」
唇を離し、金色の頭に軍帽を被りながら片眼をつむって見せる彼に、苦い笑みがこぼれてなんと答えたものかと困惑する。
「任務中に私の部屋に夜這いにくるだけじゃ、飽き足りませんか?」
軽口を叩くように返してみると、思いの外まっすぐで真剣な眼差しに射竦められた。わかってはいたが、純粋で真面目な彼が、冗談でそんなことを言いだしたわけでもないらしい。
「無事に帰りつけたら、考えておきますよ」
あえて明言はせずに余地を残した返答をすれば、絶対ですよ、と嬉しげに言って彼は扉を開けて出ていった。
姿が見えなくなれば、はぁと大きくため息がこぼれる。余所者で、しかも女の身でありながら軍に籍を置く自分と、正義感熱くとも納得できない命令には真っ向から反発する彼は、この軍にあって鼻つまみ者同士。性格は正反対だというのに惹かれてしまったのは、そういう理由が大きいのだろう。
「一緒に、ね」
私がこの国にやってきてもうそれなりに時が経つ。辺境の島国に生まれ、国を出て放浪していた時にこの北方同盟軍に拾われた。
この地では、長いこと北と南で国同士が対立している。北は幾つかの国が同盟を組んで、南の帝国からの侵略に抵抗しているという図式だ。
ただ、南の帝国と北方同盟戦況は現在こう着状態といっていいほどで、ここしばらく大きな戦闘には到っていない。休戦協定が結ばれているわけではないが、本国では平穏が当たり前になってきており、軍は厄介者扱いされつつある。このまま帝国が平和路線に転換するようなのであれば、北方同盟自体が形骸化していくだろう。
いっそこの船が港にたどり着いたなら、軍を辞めてしまうのもひとつの道かもしれないと思わなくはない。拾ってくれた将軍にはまだ何も恩返しと呼べるほどのことはできていないのが心残りだが、軍に残って無為に時を過ごしているのもどうなのだろう。
私は当初、南の帝国を目指していた。拡大路線をとるあの国でなら戦争が常に起きているようなものだと思っていたからだ。結局生きる場所は異なってしまったものの、大きく目的を外れたわけでもないのだと思っていた。だが、未だに私は戦場に立ってはいない。
「本当におとなしく、するのかしら……」
帝国の北方戦線以外、つまり北方同盟との国境以外でも、何か動きがある様子はない。帝国は腰抜けになったのだと言う者もいるが、それは本当にそうなのだろうか。
小さな丸窓の外に視線を投げる。はるか彼方に大陸が横たわっているはずの黒々とした海の向こうには、今は何も見えはしない。
明日、夕方には本国の港に戻ることができるだろう。だが、その何事もない静けさが、妙に私の胸をざわめかせた。
「少尉、今日も自分の部屋じゃなく、サクヤ大尉の部屋から出勤ですか?」
そんな風に、交代に現れた彼の姿をみてつつく兵がいたと言うことは、後になって知った。彼はしかし恥じるようでもなくむしろ堂々として、言ったと言う。
「うらやましいだろ?」
その表情に、かえって恥ずかしくなったのは言われた兵の方だったらしい。確かに、私もその場にいたならこっちの方が恥ずかしく思ったことだろうと思う。
「できることならこんな軍船の中なんかじゃなく、故郷の田舎でゆっくり二人で暮らしたいよ」
そんな風にも、彼は言っていたそうだ。きっとこの時すでに彼は決めていたのだろう。理不尽な上の命令に異を唱えて、すでに昇進の見込みは少なく、ならば田舎に引っ込んで違う道を探した方がいい。もともと才能は豊かな彼だった。きっとその方がいいだろうと、相談を持ちかけられれば私も同意したことだろう。そしてそんな彼の退役後の構想の中に、私の存在がないわけもなかった。朗らかなのに多少強引なところもあった青年だ。私が彼と共に行かない選択肢など考えもしなかったに違いない。
だが、彼のそのささやかな夢が叶えられることは、なかったのである。
最初にそれをみつけたのは彼だった。見張りの交代の時、夜の闇の向こうに彼は何かを見た。
「何か向こうにないか?」
「近くの島影じゃぁないですか? こないだ停泊してた島がこの辺りだったはずですよ」
「それは西方諸島だろう。ここからじゃ逆サイドだ」
島がある西を指し示して、彼はもう一度影が見えた東の方角に望遠鏡を向けた。
「うーん、でも俺には何も見えません。少尉の見間違いじゃないですか」
望遠鏡を手に、二人並んで夜の闇に目を凝らす。私は目がいいとよく言われるが、夜目はむしろ私より彼の方が良いほどだったから、兵の台詞をその場で聞いていたなら、私は怒鳴りつけていたかもしれない。それを彼だけが見つけられたのは当然だったのだ。
「いや、動いている。こちらに近づいてきているぞ」
「まさか」
傍らのぬくもりが急に消えた感覚に、私は目を覚ました。狭い部屋の中を薄明かりが照らしていて、その下で、軍人として恵まれた体格の青年が、身支度を急いていた。
枕元に時計を探せば、日の出にはまだ遠い時分。けれど眠い目をこすってよくよく時計の針が指す時間を見れば、彼が急ぐ理由がわかる。
「あ、大尉起こしちゃいましたか。すいません」
私が寝台の上で身じろぎする音に気づいたのか、詰襟のホックを止めながら彼が苦笑いをした。
「もう、見張りの交代時間ですか」
「ええ。でも大尉はもう少し寝ててください。昨夜は激しかったから、大尉の朝の勤めに遅らせてしまったら、申し訳が立ちません」
なんでもないことのように朗らかに笑われて、思わず私は赤面してしまった。布団の下に隠れた己の裸体と、昨夜の痴態が脳裏に蘇って、頭を抱えたくなる。演習を兼ねた哨戒任務の帰りとはいえ、航行中の軍船内で恋人と肌を重ねると言うのは、あからさまにしていい事態ではない。
照れ隠し代わりに一つ咳払いをして、私は彼から背を向けた。
「早くしないと遅れますよ、ミューゼル少尉」
悪態をつくには体が重く疲れ切っていて、そんな体力もなかった。彼が言うとおり、せめてもう少し眠らせてもらおうと思ったのもあったのだが、けれどそんな私の態度に、相手は機嫌を損ねて不貞腐れたのだととったらしい。
「怒ってるんですか? まだ任務中だから。でも、今回も何事もなかったんですよ。目と鼻の先で演習していたっていうのに、南の奴ら怖気付いて何もしてこなかったじゃないですか」
彼が寝台のへりに体重をかけて私の顔を覗き込む。二人分の重みに寝台が軋んだ音を立てた。
「怒っているわけじゃありません。純粋に眠いんです。何処かの誰かさんが加減知らずなものですから」
「でも、気持ち良さそうでしたよ、大尉も」
全く悪気もなさそうな気の抜けた笑みに、全身から力が抜けた。
「……。まだ領海に入ったわけじゃないんですから、そんな締まりのない顔を兵たちに見せないように」
「はい。俺の笑顔は大尉だけのものです」
そういうことを言っているのではないのだと言おうとして、しかし唇を奪われ、塞がれた。甘い口付けはこんなときでも心地が良い。いい加減にしないと本当に遅れるだろうにと抱き寄せられた胸板を押し返せば、耳元でそっとささやくように告げられる。
「大尉、本国に戻ったら俺たち一緒に暮らしませんか」
唇を離し、金色の頭に軍帽を被りながら片眼をつむって見せる彼に、苦い笑みがこぼれてなんと答えたものかと困惑する。
「任務中に私の部屋に夜這いにくるだけじゃ、飽き足りませんか?」
軽口を叩くように返してみると、思いの外まっすぐで真剣な眼差しに射竦められた。わかってはいたが、純粋で真面目な彼が、冗談でそんなことを言いだしたわけでもないらしい。
「無事に帰りつけたら、考えておきますよ」
あえて明言はせずに余地を残した返答をすれば、絶対ですよ、と嬉しげに言って彼は扉を開けて出ていった。
姿が見えなくなれば、はぁと大きくため息がこぼれる。余所者で、しかも女の身でありながら軍に籍を置く自分と、正義感熱くとも納得できない命令には真っ向から反発する彼は、この軍にあって鼻つまみ者同士。性格は正反対だというのに惹かれてしまったのは、そういう理由が大きいのだろう。
「一緒に、ね」
私がこの国にやってきてもうそれなりに時が経つ。辺境の島国に生まれ、国を出て放浪していた時にこの北方同盟軍に拾われた。
この地では、長いこと北と南で国同士が対立している。北は幾つかの国が同盟を組んで、南の帝国からの侵略に抵抗しているという図式だ。
ただ、南の帝国と北方同盟戦況は現在こう着状態といっていいほどで、ここしばらく大きな戦闘には到っていない。休戦協定が結ばれているわけではないが、本国では平穏が当たり前になってきており、軍は厄介者扱いされつつある。このまま帝国が平和路線に転換するようなのであれば、北方同盟自体が形骸化していくだろう。
いっそこの船が港にたどり着いたなら、軍を辞めてしまうのもひとつの道かもしれないと思わなくはない。拾ってくれた将軍にはまだ何も恩返しと呼べるほどのことはできていないのが心残りだが、軍に残って無為に時を過ごしているのもどうなのだろう。
私は当初、南の帝国を目指していた。拡大路線をとるあの国でなら戦争が常に起きているようなものだと思っていたからだ。結局生きる場所は異なってしまったものの、大きく目的を外れたわけでもないのだと思っていた。だが、未だに私は戦場に立ってはいない。
「本当におとなしく、するのかしら……」
帝国の北方戦線以外、つまり北方同盟との国境以外でも、何か動きがある様子はない。帝国は腰抜けになったのだと言う者もいるが、それは本当にそうなのだろうか。
小さな丸窓の外に視線を投げる。はるか彼方に大陸が横たわっているはずの黒々とした海の向こうには、今は何も見えはしない。
明日、夕方には本国の港に戻ることができるだろう。だが、その何事もない静けさが、妙に私の胸をざわめかせた。
「少尉、今日も自分の部屋じゃなく、サクヤ大尉の部屋から出勤ですか?」
そんな風に、交代に現れた彼の姿をみてつつく兵がいたと言うことは、後になって知った。彼はしかし恥じるようでもなくむしろ堂々として、言ったと言う。
「うらやましいだろ?」
その表情に、かえって恥ずかしくなったのは言われた兵の方だったらしい。確かに、私もその場にいたならこっちの方が恥ずかしく思ったことだろうと思う。
「できることならこんな軍船の中なんかじゃなく、故郷の田舎でゆっくり二人で暮らしたいよ」
そんな風にも、彼は言っていたそうだ。きっとこの時すでに彼は決めていたのだろう。理不尽な上の命令に異を唱えて、すでに昇進の見込みは少なく、ならば田舎に引っ込んで違う道を探した方がいい。もともと才能は豊かな彼だった。きっとその方がいいだろうと、相談を持ちかけられれば私も同意したことだろう。そしてそんな彼の退役後の構想の中に、私の存在がないわけもなかった。朗らかなのに多少強引なところもあった青年だ。私が彼と共に行かない選択肢など考えもしなかったに違いない。
だが、彼のそのささやかな夢が叶えられることは、なかったのである。
最初にそれをみつけたのは彼だった。見張りの交代の時、夜の闇の向こうに彼は何かを見た。
「何か向こうにないか?」
「近くの島影じゃぁないですか? こないだ停泊してた島がこの辺りだったはずですよ」
「それは西方諸島だろう。ここからじゃ逆サイドだ」
島がある西を指し示して、彼はもう一度影が見えた東の方角に望遠鏡を向けた。
「うーん、でも俺には何も見えません。少尉の見間違いじゃないですか」
望遠鏡を手に、二人並んで夜の闇に目を凝らす。私は目がいいとよく言われるが、夜目はむしろ私より彼の方が良いほどだったから、兵の台詞をその場で聞いていたなら、私は怒鳴りつけていたかもしれない。それを彼だけが見つけられたのは当然だったのだ。
「いや、動いている。こちらに近づいてきているぞ」
「まさか」