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奴隷

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....奴隷堕ち

「本当によろしいんですか?」

店の主人が問いかけた。その顔に現れた困惑の表情に、頼みこむこちらの方としても申し訳なさが沸き起こる。

しかし、これはすでに決めたことなのだ。

「確かにね、商売が失敗したり、借金で首が回らなくなったりした人間が、時々自分で自分の身体を売りに来る、なんて話はありますが、でも、あなたはそうじゃないでしょう。ちゃんと商売もうまくやってるし、財産だってある。あなただって自分がこれから足を踏み入れようとしてる世界が一体どんな世界なのか、わからないわけもないでしょう。あなたは俺らの商売敵だったんだ。ねえ、ヴァシルさん、悪いことは言わない。考えなおしちゃどうかね」

そう言う店の主人の言葉は同情や憐れみではなかった。むしろもっと実務的なものだろう。ヴァシルはつい先日まで同じ立場だったのだ。店の主人が言うとおり、「わからないわけがない」。

時折、借金のカタに自分を売りに来る人間がいる。そういう人間にありがちなのが、「予想と違うから、奴隷であることをやめる」と言いだす輩だ。自分で奴隷になると言っておきながら、愚かだとヴァシルは思っていた。今も、そう思っている。一度奴隷に落ちてしまえば、もうその時点ですでに、自分の意思など存在しない。全ては主人に決定権がある。そんなことは、当たり前のことだと言うのに、それすらもわからず、いざ奴隷になってからこんなはずではなかったと言いだす人間の、なんと多かったことだろう。

この店の主人も、おそらく同じことを考えている。ヴァシルには仕事も財産もある。しかしそれを自ら進んで捨ててまで、奴隷になろうと言うのだ。普通の人間であるなら考えもしないことだ。だから、主人が危惧しているのは、ヴァシルが酔狂で自分から奴隷になろうと言いだしていること、そしていざ奴隷になった途端に撤回しようとするかもしれないこと、だろうということはよくわかった。

面倒くさそうに、店の主人はヴァシル睨んでいた。この店の主人は面倒事が嫌いだ。だから、自分を売るならこの店がいいと、自分で決めた。下手に奴隷に情けをかけるような店では、ヴァシルの目的にとって、意味がなかったからだ。

「何度も言うようですが、私の考えは変わりません。どうぞ、私を『買って』ください」

にこりと笑って見せれば、呆れたように主のため息がかえってくる。

「まったくこんな面倒くさい客は初めてだ。いや、客でもないのか。ああ、もうなんでもいい。買えばいいんだろうおまえを」

主人の呼び出しに、契約書と手枷を店の従業員が携えてくる。その差し出された一枚の紙切れにサインか拇印を押せば、それでもう契約は成立だ。

ヴァシルはこの間まで、それを他人に強要してきた。絶望し、自らサインを書いた者。拒絶し、抑えつけられながら血判を押す羽目になった者。何も分からず、言われるがまま判を押し、その後泣きわめいた子供。そんな物を数えきれないほど目にしてきた。しかし、今はそれを受けるのが、自分なのだ。

何とも言えない感慨のようなものが、自分の中にあった。感慨を覚える、などと言う時点で自分はおかしいのだろうとヴァシルは思う。

ヴァシルは、初めて自分の名を書いた時のように、一文字一文字、しっかりと書きつけた。インクが最後の文字を描き終わると、傍らの男が無言のまま、ヴァシルの腕に重い鉄の枷をはめる。着ていた物もはぎ取られ、ここの奴隷と同じ簡素な服を着せられる。

他人にはめるのとは全く違う枷の重みが新鮮に思え、眺めていると、主がヴァシルに問いかけた。

「一応聞くことになってるんだが、奴隷番号は、どこに入れる?」

それこそ、ヴァシルが待ち望んでいた言葉だった。

「右の頬に。一番そこが、目立つでしょうから」

何故か晴れやかな気分に、ヴァシルは自然と笑っていた。こんなに純粋な気持ちで笑うことができるとは、思ってもみなかった。

主がまた、奇妙な物でも見るようにヴァシルをみつめていた。

入れ墨は、希望どおりに右の頬の一番目立つ場所に入れられた。こうしてヴァシルは奴隷となった。今まで自分が突き落としてきた多くの者と、同じ立場に。

だが、これだけではヴァシルの目的は果たしたことにはならない。ヴァシルが何より望むのは、ヴァシルが虐げてきたどの奴隷たちよりも、最も過酷な生を生きること。そして、自分が犯してきたあらゆる罪を、償うことだった








....ザフォル
商館ガルグの主はヴァシルと言った。その男には、一人の弟が存在した。全く似ていない弟で、館の者でも知らない者も多かったほど、商館の方には顔を出すことはなかった。
ザフォルと言ったその男は、そもそもヴァシルの実弟ではなかった。先代が奴隷の女に産ませた子だ。しかし奴隷ではなく、商館ガルグを経営する一族の者として正式に育てられた。
ザフォルも、優秀さにかけてはヴァシルに引けはとらなかった。むしろ根本的に何か欠けていたヴァシルなどよりも、よほど人間としてはまともだったのだろう。だが、だからこそ、彼は商館と関わろうとしなかったのかもしれない。
ザフォルはずっと、街中の小さなアパートの一室を研究室と称して使っていた。用意したのはヴァシルだったが、それ以上ガルグの手は、一切入ってはいなかった。学者と称していたらしいが、実際の所なにを生業にしていたのかは、ヴァシル自身も良くは知らない。ただ、近所の子供たちと路地裏で地べたに本を広げて、授業らしきもののまねごとをしていたという噂はあった。そこそこ、近所の子供たちには人気があったのだと言うことも、監視につけた者からの報告で知っていた。
「それで、貴方は今度は私に何をしろとおっしゃるんです?」
上質な革張りの椅子に腰かけて、ヴァシルが見上げる相手は、気まずそうに、ヴァシルとは違う色の銀の頭をかきやるらしい。それから安いタバコを一服、煙を高い天井に向かって大きく吐きだし、苦い笑みを作った。
ザフォルがヴァシルの商館を訪れるのは、たいてい生活の資金繰りがどうしようもなくなって、最後の頼みの綱とばかり無心しに来る時だった。毎度のことでわざわざ理由を尋ねる必要もない。ヴァシルは、なんだかんだと言いつつ、この理解不能の弟を気に入っていた。館の、ただ命令に従うだけの奴隷たちなどよりはよほど面白かった。
「仕方ありませんね。今度はいくらなんですか? まったく、差し上げると言うのに貸しにしろなどとおっしゃるから、そろそろただでは返せない額になっていますよ。それとも、貴方も奴隷に堕ちたいんですか?」
「奴隷になるのもいいが、お前に調教されるのだけは勘弁だなぁ」
何を呑気なことを、と返す言葉が、他の者に接するよりもずいぶん柔らかいのを、ヴァシルの身近にいた者ならば、誰もが知っていた。
「それにしてもヴァシル、お前まだ奴隷の調教だの、やってるのか?」
そんなこと、と表情を険しくするザフォルに、くすりとヴァシルは笑うのみ。この問いもこの表情も、ヴァシルにとってはいつもの事でもあった。
「相変わらず、貴方は甘いのですね。奴隷は調教し、意のままにしてこそ、なのですよ」
「甘いとかそういうことじゃなくってだな……」
作品名:奴隷 作家名:日々夜