漕ぎ出した舟
レイカの答えはなかった。田中がその顔をのぞくと、彼女は微かな寝息をたてていた。田中はレイカをベッドに抱いて運んだ。微かにカーテンの隙間からこぼれる月明かりに浮かぶレイカの顔をしばらくじっと見ていた。顔のあちらこちらに十年前と変わらぬものがある。すべすべとした肌、美しい柳眉、すっと伸びた鼻。そして変わったものもある、例えば花のような唇。密かな謎を秘めているような唇。……いつしか、田中は唇に魅せられた。その唇に触れたなら、どんな味がするのか、どんな感じがするのか……、そんな思いにかられた。罪の意識はなかった。レイカの唇に田中の唇が触れた。レイカは寝ていなかった。二人は唇をあわせたまま、彫像のように動かなかった。そこでは時間は止まっていた。田中は 理性も停止していた。ゆっくりとレイカの手が田中の肩にまわされた。
「もう止めよう」と田中は言った。
「お願いだから、ずっとこのままにいて」と訴える眼差しが田中を捉えた。しかし、田中は離れた。
「今、何時かな?」
くすっとレイカは笑った。
「何か、おかしいか?」
「いつも時間を気にしているもの」
「いつも?」
「そう、ずっと前からそうだった」
「ずっと前から?」
「時間って、そんなに大切なもの?」
「大切なのさ、人が生きていられる時間は有限なんだから」
「父があの女と再婚した時、ずっと独りほっちで寂しくて……時間がとても長くて耐えられなかった」
「今もかい?」
レイカは首を振った。
「今は違う……だって、そばにおじさまがいるもの」と涙を流した。
どこまで本当で、どこから演じているのか分からなかった。
「よく泣くのは昔とちっとも変わらないな」と髪をなぜた。
「時々、死にたいと思うことがあるの」
「なぜ?」
「わからない……でも、生きていてもちっとも面白くないから。ずっと前、話してくれたことがあったでしょ」
「どんな話を?」
「昔、昔よ…どこか遠くの村の親戚の家に行ったことがあった。夜になると、月が出て、蛍が舞った。とてもこの世とは思えないほど綺麗だった。親戚の人はあの世だって怖がらせたけど、今、とても懐かしい。あの頃は満ち足りていた。何かが狂ってしまったの、私の中で」
「だったら直せばいい」
「もう後戻りはできない。だって、舟は漕ぎ出してしまったもの……」
「どこに向かう舟だ?」
「大人の愛という世界に向かう舟よ」
田中は呟くように「好きにすれば良い。もうもうじき二十歳だろ。十分、大人だ。君のお父さんには、“大人の女として生きているから、心配する必要はない”と言っておくよ」
「ありがとう。でも、二人とも心配していないよ」とレイカは笑った。
数か月後、レイカからメールが田中に着た。
他の男と恋仲になり、これからヨーロッパに旅立つという内容だった。田中は彼女が自由奔放に生きていくのだと悟った。そして、自分が知り得ない世界に向かう舟に乗っているのだとも思った。それが愛という世界なのかどうかも分からなかった。