漕ぎ出した舟
女の勘はある種の鋭さがある。その鋭さに田中は驚きの余り声を発しそうになった。
「どんな風に?」
「分からないけど、何となく」
「気のせいさ」
「そうかしら? あなた、昨日寝言を言っていた、よく聞き取れなかったけど、女の人の名前みたいな……そんな気がしたの」
「馬鹿げている。他の女に興味を抱いていないのは、君も知っているだろ?」
「私もそうだと思っていた。でも、……分からないの」
「何が?」
「夕方、あなたの研究室に電話をしたの、そしたら、あなたはいなかった」
「用があったんだ」
「いいの、弁解しなくても……」
「別に弁解なんかしないさ」
それっきりだった。二人の会話はそれで幕が降りた。
しばらくして、靖子の寝息がしてきた。田中はなぜか寝つかれなかった。
レイカが勤めているというクラブを訪ねた。
レイカは派手な服を着ていた。
「来てくれたの?」とレイカは嬉しそうに出迎えてくれた。
席に着くと、
「何にする? ウィスキーでいい?」
「それでいい」と田中は答えた。
グラスに酒を注ぎながら、レイカは「ねえ、大学って面白い?」と聞いた。
「いや、詰まらないところさ」
「気取っている」とレイカは呟いた。
「その大きな眼でじっと見ないでくれ」
「恥ずかしいの?」
「そんなことはないけど、何となく心まで見透かれそうで……」
レイカは微笑んだ。
田中は当たりを見回した。高級そうなクラブだった。
「客は少ないね」
「まだ早いから」
どれほど飲んだことか。田中が飲みすぎたなと感じた頃、神妙な顔したレイカが「ねえ、お願いをしてもいい。ちょっと言いにくいけど……」と揉み手をした。
「何だ?」
「私を愛人にして欲しいの?」
突拍子もない話に田中は持ってグラスを思わず落とてしまった。
その慌てぶりを見たレイカは「嘘よ……」と笑いながら、落としたグラスを拾った。
その笑い方に妙に怒りを感じた田中は立った。
「帰る」と言った。
「待ってよ」とレイカは田中の手を取った。しかし、その手を振り払った。清算を済ませて店を出た。
後を追う足音に気づいて、立ち止まった。振り向くと、レイカがいた。
「ごめんね、さっきは」とお辞儀をした。
「いいよ」と田中は照れくさそうに言った。
唐突に店を出たのが子供じみていたと恥じたのである。
「一緒に帰ろう、田中のおじさま」と言って腕を取った。
「店はいいのか?」
「いいの。出るとき、気分が悪いから帰ると言った。タクシーを拾うね」
田中はうなずいた。
タクシーに乗り込むと、田中は直ぐに寝てしまった。目覚めると、そこはレイカのマンション前だった。
部屋に入ると、田中はまた睡魔に襲われた。実は昨日、論文を書くために徹夜したのだ。どれほどの時間が経ったのか、田中は目覚めた。自分がどこにいるのか、すぐには分からなかった。
「眼が覚めたの?」
「ここは?」
「私の部屋よ」
田中はびっくりして起き上がった。
「帰らないと」
「もう電車はないよ」
田中の家は横浜にある。タクシーで帰れば、二万は超えるかもしれない。
「今は何時だ」
「たぶん、午前一時頃よ」
「一時か」と田中は呟いた。
もう靖子も娘たちも寝ているだろうが、靖子はテレビを見ていて起きているかもしれない。
「電話はするよ」
一回、二回、三回と呼出し音が鳴る。ようやく出る。靖子である。
「今日、出版社と打合せがあって帰れない」と簡単に告げる。靖子は簡単に納得する。電話を切った。
振り向くと、そこにパジャマ姿のレイカが立っている。少し色っぽすぎると田中は思わずにはいられなかった。
「ビールを飲む?」
「水の方がいいな」
「天然水がある」
レイカは冷蔵庫からボトルとビール缶を取り出しテーブルの上に置き、グラスに水を注いだ。
田中も椅子に腰を下ろした。
「このパジャマは君のじゃないだろ?」
「おじさんの着ているのは、前の彼のもの」と平然と答えた。
「同棲していたのか?」とレイカを見た。
「答えたくないなら、別にいいよ」
「同棲していた。お金持ちのドラ息子と。このマンションを手切れ金代わりに貰った。そいつは、もう結婚したけど」
「いつ?」
「十八の時よ。高校卒業すると、直ぐに家を飛び出して東京に来た。そして半年後に同棲した」
「相手は幾つだ?」
「三十五歳と言っていた」
「それは犯罪に近いな」
「でも、愛し合っていた。どちらかというと、私の方が愛していた」
「愛が分かるのか?」
「分かるよ。心も体も溶け合うことだよ。おじさん、警察みたいね、法律の勉強をすると、みんなそんな風になる?」
レイカは相手を見下したいという意思が強くなると、鼻を心持ちあげる。
「そんなことはないけど……」
「でも、正直な話、よう分からない。ただ寂しかっただけかもしれない。でも、女優になるには男を知っておく必要があるでしょう? 処女でままでは女優になれないでしょ?」
「そんなに、簡単に割り切れっていいものか?」
レイカは笑った。
「私ね。九歳の時、心をどこかに置き忘れてしまったの」
野本が再婚した年だ。やはり両親の離婚、そして電撃的な父親の結婚がショックであったのであろうか? そういえばレイカが泣きながら、「おじさんの子供にして」と頼んだことがあったけ……。
レイカは二つのビール缶の栓を抜いた。
「ねえ、おじさまは幾つの時、セックスに興味を持った?」
田中は顔を赤らめた。
「そんなの忘れたよ」
レイカはくすっと笑い、「子供みたい……」と呟いた。
「わたしは十才のとき、あの女とお父さんが抱き合っているのを見たの。何だか信じられなかった」
田中には、レイカのあのあどけない笑顔だけが心に焼きついていた。その笑顔の奥にはそんなことがあったなんて少し信じられなかった。
「びっくりした?」
「びっくりするさ」
時代は恐ろしいスピードで変化している。そのことは頭の中では何となく納得しているつもりではあったが、いざ、それを具体的に聞かされると混乱した。
「私は寂しいの、どうして自分だけがひとりぼっちなのか……」と泣き始めた。
どう慰めればいいのか、言葉が見つからなかった。ただ無意識のうちに泣いているレイカの背中を撫ぜていた。まるで迷子になった子犬を慰めるかのように。すると、レイカはその身を田中の胸にゆだねた。突然のことだった。無意識で田中は支えた。レイカの胸の豊かな質感を感じた。パジャマの下はブラジャーをつけていないことに気づいた。容易にレイカは泣き止まなかった。田中は支えているだけで精一杯だった。
やがてレイカはゆっくりと顔をあげた。じっと田中を見た。大きな眼を見開き、ゆっくりとその瞳を閉じる。田中は何の意味なのかを考えた。ある種の誘いなのか、それともただ単に瞳を閉じているにすぎないのか……。
「ずっと昔もこんなふうにしたことがあった」
「君がとっても小さい時だ」
「小学四年生の時だったわ」
「記憶力が良いんだね。そういえば、賢かった」
ふと、田中が窓辺に眼をやると、月明かりが薄いカーテンを透かしている。光の筋に従って眼をやると床をほんのりと明るくなっている。
「今夜は月夜かな?」