Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ
その広すぎて寒々しいほどの客室で、アルベルトとリゼはそれぞれ言葉を交わすこともなく、思い思いの行動をとっていた。ティリー達は出払っていて、今部屋には二人以外誰もいない。暇を持て余しているのか、リゼは机に積んだ本をぺらぺらとめくっては戻すのを繰り返している。時折、難しい顔をして考え込んでいるのは何か考え事があるのだろうか。その様子を横目で見ながら、アルベルトは本を閉じた。
広いとはいえ、船室で出来ることは限られている。そこでアルベルトが選んだのは、いつかと同じく本を読むことだった。客室には本棚が備え付けられていて、童話とお伽噺を集めた本が並べてあったからだ。しかし、大人向けに編集されたもので読みごたえはあるのだが、ラインナップはフロンダリアとほぼ同じで、正直読むものはほとんどない。唯一、フロンダリアにはなかった第五巻があったのは幸いだった。
その本に収録されていたのは、一人の勇者が光の剣を用いて悪しきモノを倒すお伽噺。彼の勇者が携えし剣は、あらゆるものを斬り裂き、あらゆる者を癒す力があるという。ミガーにも苦境の時に偉大な人物が現れて、人や国を救うという物語があるらしい。
お伽噺には挿絵が添えられている。大地を焼き、文明を破壊し、まつろわぬ民を滅ぼすと宣言する“悪しきモノ”。それは黒い靄を纏った一人の人間の姿をしている。古い本なのか色彩はかなり色あせているが、“悪しきモノ”の髪は黄金、瞳は毒々しい赤色。その周りには整然と並ぶ鎧の兵士。頭上には黒い靄を纏う化け物を侍らせている。なかなか迫力のある絵だ。だがアルベルトの思考は、光剣の勇者の物語ではなく、別のものへと移りつつあった。
黒い化け物を従える赤い目の人間。それと対峙する光の勇者。まるで“悪魔の子”と“神の子”のようだ。マラーク教聖典の最後に記された預言をアルベルトは思い返す。破滅の使者たる“悪魔の子”の役目は神のしもべを滅ぼし、心正しき者に苦しみを与えること。悪しき者に力を与え、魔王(サタン)をこの世に顕現させること。そう、まさしく悪魔教の教主リリスがそうしているように。ならば、“悪魔の子”リリスと対峙する救世主、“神の子”は一体どこにいるのだろうか。
アルベルトは本から視線を外し、机に向かうリゼを盗み見る。
『魔王(サタン)が封じられし終末の日から千の季節が過ぎ去りし時、神の子は第二の都市(スミルナ)に降臨し、聖なる力を以って苦しむ子羊達を救うであろう――』。
あの光景はまるで聖典の記述そのままだった。あれは預言が現実となった瞬間なのだろうか? それとも偶然なのだろうか?
(リゼ。本当に君は――)
「アルベルト。ちょっと」
不意に声をかけられて、アルベルトは思考の渦から現実に引き戻された。
「なんだ?」
顔を上げると思ったよりも近くにリゼがいて、アルベルトは思わずのけぞった。いつの間に近づいたのだろう。困惑していると、リゼは真剣な表情でずいっと詰め寄る。反射的に一歩引いたが、怪訝そうな顔をしたリゼに同じだけ詰め寄られたので結局距離は変わらなかった。むしろ背後の椅子に座りこむことになってしまって、これ以上距離を開けようがない。
「何で逃げるのよ」
「いや……逃げるというか、その……」
近すぎやしないか。冷や汗をかきながら、アルベルトはそう呟く。今、リゼはお互いの吐息がかかりそうなほど近づいてきている。親族でも緊急事態でもないのに、異性とこれほど接近しているのはいかがなものだろう。たまらず顔を逸らしたが、それもむなしく頬に手を当てられて強引に正面を向かされた。
「目を逸らさないでよ」
「そんなこと言われてもな……」
さすがに気まずい。とても気まずい。この至近距離で平静でいるのは無理だ。どうして彼女はそうも平気で近づいてくるのか。椅子の上で硬直したまま、アルベルトは視線だけでもとリゼの背後の天井に意識を集中しようとした。が、
「いいからこっちを見て」
強い口調で訴えられ、アルベルトは仕方なくリゼと視線を合わせた。
すぐ近くに彼女の瞳がある。冬の空のような澄んだ蒼の瞳だ。 瞳の中に虹色の煌めきが踊っている。彼女の魂の輝きと同じ強く美しい光。しばらくすると、アルベルトは状況も忘れてリゼの瞳に見入った。
虹の煌めきの奥にあるのは……瞳よりも少し濃い蒼の光? それもただの光ではなく、紋様を描いているように思える。円、八芒星、見知らぬ文字。どこかで見たことのある形。これは魔法陣だ。彼女の中に魔法陣が刻まれている。そしてその奥に何か見えるような。巨大な何かの力の影が――
「駄目ね。全然分からない」
その時、リゼがそう言ってぱっと距離を取った。突然解放されて、アルベルトは困惑する。一体なんだったのだろう。しかしリゼは特に説明もせず、何事もなかったかのように腕を組んだだけだった。
「えーっと、今のは何だったんだ?」
そう尋ねると、リゼは何か考え込みながら答えた。
「瞳は人体の中で最も力が集約する場所であり内面を映す窓でもあるの」
「つまり――」
「相手の能力の程を知りたければ眼を見ればいい。分かるかどうかは別だけど」
それでただ視るよりよく視えたのか。リゼが悪魔研究家に協力するのを嫌がる理由の一端が分かった気がした。こうやって調べられるのは嫌がるだろうと容易に推測できるのだ。ただし人にやる分には抵抗がないようだが……
「でも、どうして俺の眼を?」
リゼもこの“眼”の能力に興味を持ち始めたのか? しかしリゼは能力の内容については興味を示しても、わざわざこんなことをしてまで調べようとはしなかった。なのに突然調べようとするなんて。
「……ちょっと、気になることがあって」
「気になること?」
聞き返したが、リゼは黙ったまま何かを考え込んでいる。よほど言いたくないことなのか、それとも確証がなくて言葉に表せないのか。リゼはしばらく考え込んでいたが、不意に顔を上げるとアルベルトの方を向いた。
「やっぱりもう一度見せて」
考えを話してくれるのかと思ったら再鑑定を申し出られて、アルベルトは戸惑った。
「え? い、いやしかし――」
「いいから」
リゼは再びアルベルトに詰め寄ると、ずいっと顔を近づけた。しかもまたしても逃げ損ねてしまったため、下がろうにも下がれない。どうしようかと思案しているうちに、がちゃりと扉の開く音がした。
「アルベルト、いないんですの? ――って」
入ってきたのはティリーだった。扉を開けた状態で、ぴたっと固まっている。ティリーは二、三度目を瞬くと、はっと我に返った様子で室内に踏み込んだ足を引っ込めた。
「あらごめんなさい! お取込み中でしたのね! 邪魔者は退散しますわ。ごきげ――」
「いいわよ。もう終わったから」
そう言うなり、リゼはすっとアルベルトから離れ、何事もなかったかのように居住まいを正す。その変わり身の早さに驚きつつも、アルベルトは椅子から立ち上がってティリーの方へ視線を向けた。
「えっと、ティリー。何か用か?」
「用というほどではありませんけど、アルベルトにお話が。でもそれより」
ティリーはほんの数歩で部屋を横断すると、アルベルトに詰め寄った。遠慮なく距離を詰め、人差し指を突きつける。
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ 作家名:紫苑