魂を揺さぶるような鐘の音
ケンイチははっとしてショウコをみた。同じような話を聞いたことがあった。それは彼が尊敬したX教授も鐘の音を聞いて“魂が揺さぶられる”と言ったのだ。ショウコの意外な一面を垣間見て驚いた。ケンイチにとって、ショウコはずっと肉体だけの女に過ぎなかった。彼女にどんな精神的なものがあるかは興味を持ったことがないし、聞いたこともない。勝手に知的なレベルが低い女と思っていた。しかし、今の一言でそうではない一面があることを知った。彼女にもまた二十一年の歴史があって、その中でいろいろと経験し、そして何かを学んできたものがあるとケンイチは思い知らされた。
その夜、ショウコは泊まった。そしてケンイチは抱いた。朝、起きたとき、ショウコは服を着ながら言った。
「私、話し方がゆっくりだから、みんな馬鹿だと思うみたい。学校も中学しか出ていないし」
「そんなことはないだろ」とケンイチが言うと、ショウコは微笑んだ。
ケンイチは馬鹿だと思わなかったが、知性や教養もさほどない女だとも思っていた。それに美しいというわけでもない。それでも惹かれたのは、ただ単に抱き心地が良かったら。
「だったら、私をお嫁にもらって」とショウコは真顔で言った。
ケンイチの返答に窮した。
「私を抱いたのは、単なる遊びだったの?」
「遊びじゃない。でも、まだ、結婚する気もない」と言った。
「冗談よ。本気にしないで。私と合わないことは知っている。いいの、今が楽しければ」
ケンイチは何もかも見透かされていると思って驚いた。ひょっとしたら、本当に馬鹿なのは自分の方ではないかも。そう思ったら、気分が悪くなり、その後の会話は続かなかった。
ケンイチは駅まで見送った。
別れ際にショウコは「本当は話があったの」と言った。
「どんな話だ?」
「もういいの。どうでもいいことなの。それより、また、あの鐘の音を聞きたい」と言った。
それが最後の一言だった。ひそかな関係が突然途切れた。翌年の春、ショウコが結婚したからである。それは彼女自身が望んだものではなく、家の都合でどうしょうもない男のもとに嫁いだのである。――
ショウコから電話をもらった次の日、ケンイチは車で隣町まで走らせた。隣町の浜辺と言っただけだが、それだけで十分だった。そこはよくショウコと行った浜辺だった。
浜辺に着いた。車を停めて、浜辺に向かった。風が強くて、海から吹き寄せる風の音がさらに北国の蕭条とした海辺の風景をいっそう掻き立てていた。ずっと先で一人の女が佇んでいた。ショウコがどうか分からなかったが、ずっと海を見ていた。その光景を見ていたら、先に進めなくたった。いろいろと考えた末、車に戻った。そして、そのまま車を走らせた。“会ったところで何があるというのだ。今さら過去にも戻れない。幸せかは別として、彼女はもう人妻だ。昔、関係があり、呼び出されたとはいえ、軽々しく会うものではない”と自分に言い聞かせた。
家に戻ったが、ショウコから電話はこなかった。さほど用が無かったのであろうと、勝手に解釈した。ショウコが夫の暴力と不貞に悩まされていると、人づてに聞いたことがあったが、何を訴えかったのだろうか。ケンイチはあれこれ考えたものの分からなかった。
数か月後、地元の友人からショウコが自殺したという話を聞いたとき、ケンイチは会わなかったことを思い出し胸が締め付けられた。そして、鐘の音を聞く度に、ショウコのどことなくはにかんだ顔を思い出さずにはいられなかった。
作品名:魂を揺さぶるような鐘の音 作家名:楡井英夫