切れない鋏 3.信洋の章 残骸
そういうことか、と信洋は思った。亡き弟を思い出させる女なんか抱けない、とでも言おうとしているのだろうか――
武の表情をつぶさに観察した。紗弥の話をしていた時とは別人のようにさっぱりとした表情で、写真に映る慎一郎を見つめていた。
「小雪に慎一郎さんのベースを託したのは……やっぱり身代わりなんですか」
武は不意をつかれたような顔をして、スクラップブックを閉じた。
「ユキコがベースを弾きたいなら、貸してやろうって思っただけだ」
重荷になってるみたいです――と言いかけて、口をつぐんだ。もう笑ってはいなかった。
「本題終わったみたいだし、帰るわ」
武がすばやくミリタリーコートをはおって店を出ようとすると、綿谷がめずらしくあわてた様子でカウンターからとび出してきた。
「車、うちの前に置いてっていいから、タクシー乗って帰れよ」
「わかってますよ」
吹きこんだ風の中に、雪の夜の冷たさを感じた。眉を下げて綿谷に礼を言う武の姿こそ、偽らない彼の姿のような気がした。
「武さん、俺を追悼セッションに出させていただけませんか」
とっさにそう言うと、トランペットケースを下げた武がふり返った。
「小雪のことはまだ納得いかないけど、やっぱり俺は武さんのトランペットが好きです。ずっとあなたみたいなプレイヤーになりたいと思ってました。慎一郎さんが残したハウハイを俺にも叩かせてください」
地上から雪が吹きこんできた。信洋が思わず身震いすると、武はファーのついた帽子を頭からかぶって言った。
「好きにしろ。セッションに出るドラマーは綿谷さんの他に数人いる。出番があるかわからないが、やりたい曲があるなら死にもの狂いで練習してこい」
喜びのあまり言葉より体が前に出てしまった。信洋の返事も聞かず、武は階段を上がっていった。「よろしくお願いします」と声を張り上げたが、武は吹雪の中に姿を消してしまっていた。
入れ替わりに階段を下りてきたのは、ピンクのマフラーを巻いた愛美だった。
「タケ兄が出てくるところ見たから、下りてきちゃった」
そう言って笑った愛美の髪にたくさんの雪がつもっていた。思わず信洋はそれを払い落とし、店の中に引きいれる。
「おやおや、千客万来だ」
綿谷は愛美の雪に濡れた姿を見て、タオルをさし出してくれた。信洋がそれを受け取ってコートについた雪をぬぐっていると、綿谷はポットのお湯を沸かし始めた。
「あの、すぐ帰りますから」
愛美はそう言ったが、綿谷は紅茶缶のフタをパカリと開けて言った。
「そんなこと言わないで。うちのロイヤルミルクティー、けっこううまいよ」
この人の温かい笑顔は、どんなに尖った心も優しく溶かしてくれる。愛美は泣きそうな顔になりながら、椅子に腰かけた。
「どうしてこんな時間に?」
向かいに座りながら信洋が聞くと、愛美はくしゃりと笑って言った。
「ノブとタケ兄が『ブラックバード』でケンカしてるから、近くにいるならノブを加勢してやってよって、紗弥さんが」
目の前に、無言でスパゲティをすすっていた姿が思い浮かぶ。
「紗弥さんに会ったの?」
「ううん。ライブのあとに携帯見たら、メッセージが入ってたの」
そう言いながら携帯の画面を見せてくれた。眼鏡をかけたキツネが「ファイト!」と腕をふっていて、信洋は笑ってしまった。
綿谷が並べてくれたロイヤルミルクティーのカップから、ゆるやかに湯気が香り立つ。カップに口をつけた愛美の頬に色がさす。その姿を見るだけで心がほぐれた。
「その様子だと、ケンカは引き分け?」
愛美の口元から温かな吐息が漏れ出す。信洋は頬の筋肉がゆるむのを感じながら言った。
「慎一郎さんの追悼セッション、俺も出させてもらうよ」
愛美はカップを持つ手を宙に浮かせたまま、信洋を見た。
「武さんと慎一郎さんと、それからマナのこと、聞いたよ。写真も見せてもらった。武さんに聞いたんだ、小雪は慎一郎さんの身代わりかって。どうもそれは違うみたいだし、それなら小雪を助けたいと思ってさ」
愛美は目を見開いて信洋の言葉を聞いていたが、カップを置いてゆっくりうなずいただけだった。信洋は愛美の冷えた手をとって言った。
「マナも出よう。俺と小雪とマナの三人で、武さんがびっくりするようなハウハイ、やってやろうよ」
握った手に力をこめると、愛美の大きな目はさらに大きく開かれて、そこに太陽の種が眠っているように輝いていた。
「ノブが出るなら、楽しいかもね」
くすりと笑ってから、「インフルエンザにかからないでね」といたずらっぽく付け加えた。「善処します」と頭を下げたところに綿谷がやってきて、三人で笑いあった。
後片づけをして店を出ると、街は一面深い雪に覆われていた。濡れた路面に足を取られた愛美がバランスを崩し、信洋は思わずうしろから支えた。
愛美は雪が舞い降りる空を見上げたまま、白い息を吐きながら言った。
「タケ兄は……シン兄のかけらを集めながら生きてるの」
頬に落ちた雪が溶けて、愛美の頬は赤く染まっていく。
「五年も経てば、シン兄の話ができる人は少しずつ減ってく。私はそれでいいと思ってるの。だってみんな前に向かって歩いてるんだから。でもタケ兄は、シン兄が残したものをひとつ残らず抱えて、落としては拾い集めて生きてる。シン兄の写真を見たなら、タケ兄が小雪にこだわる理由、なんとなくわかるでしょ?」
スクラップブックにあった写真を思い返しながら、信洋は首を垂れた。
「きっと小雪の中にかくれてるシン兄のかけらを、ずっと探してるのよ」
愛美のロングブーツがざくりと雪を踏みしめた。綿谷が鍵をかけるのを待って、信洋も街頭に出た。夜になってから降り始めた雪が、静まり返った街を深い眠りに包んでいく。
武が小雪にこだわるのは、慎一郎の残骸を集めるため――本当にそれだけなのだろうか。それだけで、人はあんなに屈託ない笑顔を見せられるものなのだろうか。
不意に湧いた疑念は消えることなく、雪のように信洋の中に降り積もっていった。
作品名:切れない鋏 3.信洋の章 残骸 作家名:わたなべめぐみ