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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 3.信洋の章 残骸

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3.信洋の章 残骸



 武と紗弥が練習室にやってきたその日、小雪はかなり集中力を欠いていた。弦を押さえる指にも力が入らないのか、何度もミスタッチをくりかえしている。

 そんな小さな体で何もウッドベースを弾く必要なんてない、と信洋はこっそり思っていたが、口にしたことはない。指板を見つめる熱のこもった瞳に惹かれてやまないのも、隠しようのない事実だったからだ。
 いつもは口うるさい愛美も、言葉少なになっている。コンサートマスターとしての指示もホーンセクションに集中していて、信洋は淡々とドラムを叩き続けた。

 武と紗弥の会話を、小雪はどこまで聞き取ったのだろう。耳のいい信洋には、断片的に「結婚」という言葉が聞こえた。OBたちが組んでいるビッグバンドは誰かの結婚式のためだということはすぐに理解できた。
 防音扉のすぐ横に立つ小雪の耳に、どんな言葉が届いていたのか――精彩を欠いたベースのリズムを立て直すのに必死で、聞き出すことはできなかった。

 午後七時になり、武のビッグバンドと入れ替わった。せっかくだから綿谷のドラムを聞きたいと思っていたが、楽器店に行きたいと小雪に頼まれたため、車を出すことにした。

 十号棟の外に出ると、鼻先を切り裂いていきそうなほど冷たい風が吹いていた。夜空には目がくらむほどの月が輝いている。口元をマフラーで覆いかくした小雪が、ベースを担ぎながらゆるい坂道をゆっくり上ってくる。

 出会ってすぐの頃は、この頼りない足取りを見るたびに手伝おうかと声をかけたものだが、小雪がかたくなに拒むのを見て、なにか得体のしれない決意があるのだと感じた。
 練習室に無造作におかれた傷だらけのスティックのうち、どれが自分のものか瞬時に判断できるのと同じように、あのベースには信洋にはわからない愛着があるのだろう。
 
 いつものように小雪の主導で乗用車にベースを押しこむと、信洋は静かに車を発進させた。助手席に座った小雪が、ふうと息をついてマフラーをはずす。

「ごめんね。突然、楽器屋さんに行きたいなんて言って」

 作りたての雪だるまのように白い頬に、ほんのりと赤みがさしている。信洋は微笑みかえすと、住宅密集地の細い路地でゆっくりとハンドルを切った。

 小雪のわがままはいつも、信洋の許容範囲に収まっている。愛美のように時には無茶を言ってくれた方が尽くし甲斐があるのに、小雪の頼み事は信洋の大学生活とアルバイトの予定を決して乱さないものだった。

 後部座席に積んだウッドベースが揺れないように、慎重にアクセルを踏んだ。

「もっと頼ってくれたっていいのに」
「だって肝心なときにインフルエンザにかかるじゃない」
「それを言われるときっついなあ」

 信洋が苦虫をかみつぶしたような顔でそう言うと、小雪はいたずらっぽく笑っていた。
 少しは普段の調子を取り戻したらしい。小雪はトートバックを探ってのど飴を取りだすと、「もう風邪ひかないようにね」と言って信洋にさし出した。

「今、ハンドル離すとやばいかも」

 暗闇の中に沈む前方の道路を睨みながら言うと、袋を破るカサカサとした音が聞こえた。

 ふと小雪を見ると、指先に飴玉を持っていた。信洋に口を開けるように催促して、飴玉を押しこんでくる。
 あわてて口先を尖らせると、下唇に小雪の指が触れた。口の端から飴玉が転がり落ちそうになり、もう一度咥えなおす。
 今度は舌の上にはっきりと小雪の熱を感じた。その瞬間、視界が真っ白になった。

 ぶつかる――と思ったのは気のせいで、次の曲がり角までまだずいぶん距離があるようだった。信洋は脱力して、ハンドルに腕をもたせかけた。

 小雪がくすくすと笑っている。からかわれたのだと気づいて、顔面に血液が集中するのを感じた。夜闇に包まれる車内でもごまかしようのないくらい赤くなった顔をふって、信洋は口を開いた。

「あの日はほんとゴメン。結局、武さんに運んでもらったんだっけ」
「うん、そう」

 小雪は消え入りそうな声でそう言って、サイドガラスの外に視線を注いだ。
 心臓がじくじくと痛みだすのを感じながら、疑念を打ち消そうと必死でハンドルを握る。
 そのあと、どうしたの――と聞けない自分が、情けなくてたまらなかった。

 あの雪の夜、『ブラックバード』を出たというメールが来たきり、小雪からの返信が途絶えた。愛美から聞いた話によると、武の車で送ってもらった、とのことだった。荻野家までの距離を考えても、通信がこと切れたとき、小雪は武の車に乗っていたはずだ。
 武が唐突に『モーニン』をやりたいと言いだして、そのあと二人はどうしたのか。
 今朝のように、武の借家に行っていたのではないのか――

 どす黒い想像の嵐が信洋の心を侵食していく。誰も嘘は言っていないのに、どうして気持ちは灰色に塗りかえられていくのだろう。

 口腔内に転がる飴玉はこんなに甘いのに、二人の間にあった恋人らしい空気は瞬く間に消滅してしまった。



 四十分ほど車を走らせ、信洋たちは住宅街の中に車を停車させた。この駐車場のすぐそばになじみの楽器店があると聞かされているが、信洋が来るのは初めてだった。

 後部の扉を開けてベースを取りだそうとしたが、小雪に静止させられてしまった。 
 こういうとき、彼女に潜む何かとのどうしようもない隔たりを感じる。
 搬入や搬出の際、自分が所有する楽器を運んでもらうことは頻繁にある。けれど小雪はその行為の一切を拒んでいる。その理由が信洋にはわからないでいた。

 冬の夜風から身をかくすように、島田弦楽器工房はたたずんでいた。
 信洋が雑居ビル一階の引き戸をゆっくりと開けると、その動きに合わせて小雪はベースを中に入れた。

「やあ。よくきたね」

 奥からしゃがれた男性の声が聞こえた。小雪がゆっくりとマフラーをはずす。
 うしろからついて入った信洋は、思わず息を飲んだ。
 部屋の隅という隅に巨大なウッドベースが立っている。青いソファのようなスタンドの上に並べられた無数のベースは意志を持った生き物のようにこちらを向いている。

 弦楽器に疎い信洋でも、ベースそれぞれに個性があり、本体の色だけでなく、弾けば違う音がなることが容易に想像できる。
かぎなれない、けれどよく知っている匂いが狭い工房内に立ち込めている。
 ベースを弾いたあとの小雪の指からする、あの松脂の香りだ。

 小雪のベースは、もともとオーケストラのベース奏者が使用していたらしく、弓がついている。小雪が演奏で使うことはまずないが、手入れのためにときどき松脂を塗っている。
 初めて彼女の手を握ったとき、「松脂のにおいがついてるから」と拒まれたことを思い出す。それ以来、松脂の匂いを嗅ぐと、小雪の細く白い指が思い浮かぶ。

 小雪がベースを寝かせると、楽器の林の奥から、エプロン姿の男性が姿を現した。顎ひげをこすったあと、レンズの曇った眼鏡を押し上げて小雪のベースに歩みよる。

「すみません。こんな遅い時間に」

 小雪がソフトケースのファスナーを下げると、初老の男性は腰のあたりを叩いて重そうな上体を起こした。

「今の時期は調子が狂いやすいからね。このご老体にはきついだろうと気になっていたんだ」