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難民

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『難民』

アフリカの地、四方を山に囲まれた痩せた盆地に、ナジャルの街はあった。

そこはかつて美しい土地だった。
遠い昔の言い伝えに『青き空の下、緑に覆われた山々に覆われ、水を満々とたたえた河が流れ、見渡す限り実り多き畑のうるわしの大地』というのがあるが、今は見る影もないが、かつての繁栄を偲ばせる、崩れた巨大な神殿の跡がある。白亜の荘厳な神殿は、そこに多くの者が住んでいたことを示す、たくさんの遺構があるが、今は旅人さえも寄りつかない。ただ暑い熱砂を含んだ風が吹くだけである。

遠い昔と唯一変わらないのがある。それは青き空。その雲一つない空から、来る日も来る日も炎のような日差しが照り続ける。
無限に続くような砂丘にところどころにオアシスがあり、そこに街や村がある。

十八歳になったナジャルが住む街も、そんなオアシスの街だ。
彼の家は街外れにあった。病弱の母と幼い妹と3人暮らしだった。わずかばかりの農地と家畜でほそぼそとはいえ、幸せに暮らしていた。
ナジャルは学校に行かず、一家の大黒柱として働いていた。とれた野菜を売って生計を立てていた。彼が売りにいく家にミヤという少女の家があった。挨拶を交わしていくうちに二人は仲良しになった。
「学校に行かないの?」とミヤが聞いた。
「貧しいから、行けない」とナジャルが答えると、ミルは黙って空を見上げた。
空の向こうには、雲で覆われた山があった。
「山の向こうに、文明国に行く船があるの?」
「本当に?」
「文明国では、誰もが豊かで、誰もが幸せに生きている。お父さんが、いつか、みんなでその船に乗って行くと言っていた」

彼女の父は医者だった。
「ここでの生活に夢がない」といつも愚痴をこぼしていた。
急激な砂漠化、貧困、政情不安、何一ついいことがなかった。
「子どもには、夢を見させてやりたい」とも言っていた。
「そのためには、この地を離れないといけない」
ナジャルが「いつ、行くの?」と聞いたら、
「分からない。分からないが、もうじきだ。そんな気がする」
ミヤの父親はまだ五十前だが、老人のように老けていた。

ミヤとの別れは突然やってきた。
ミヤは言った。
「もうじき、戦争で何もかもめちゃくちゃになる。だから、もう、この町に住めない」
ミヤは微笑んだ。泣かなかった。泣けば、別れがつらくなるから。
「さようなら、ナジャル。さようなら、初恋の人」と呟くように言った。
ナジャルは「さようなら」と言わなかった。言うと、二度と会えない気がしたから。

数か月後、隣の国で水を巡って争いがあった。水足に悩んだ農民が隣村の井戸の水を無断で飲んだのが始まりだった。その争いは瞬く間にその盆地全体に広がってしまった。誰も武器も持って戦った。昨日まで仲が良かったはずの友達がいがみあった。心優しいナジャルも戦闘に加わることを勧められたが、彼は拒んだ。

隣村に住む友人だった少年キラが兵士になった。
それも敵方の兵士に。
出会えば、いつも笑顔で迎えてくれたのに、その日は違った。
銃を持ち、こわばった顔をしていた。
「どうして、兵士になった?」とナジャルは聞いた。
「決まっている。生きていくためさ。生きるために敵を殺す。それに、兵士になったら、お金をもらえた。もうお前では会えない。今度、会ったら、銃を向けなければならない。だから俺の前に顔を出すな」

戦火は拡大し否応なく彼を巻き込んだ。
農作業をしていると、時折、銃声が聞こえるようになった。そして、何者かによって、彼の家に火が放され燃えて消失してしまった。

ナジャルは幼い妹と病弱な母をつれてミヤが言っていた港を目指すことにした。
砂漠を歩いた。山を越えた。小さな村の入り口についたとき、母が重い病になって、動けなくなった。
「国に戻ろうか?」とナジャルは聞いた。
「もうじき、死ぬ」と母は微笑んだ。
「嫌だ」とナジャルは泣いた。
「よく、お聞き、もう歩けない。ここで終わりにする」と言い終わると、眠るように息を引き取った。
ナジャルと妹と二人、小さな墓を作った。
そして、泣きじゃくる妹を抱き寄せ、「いつか、またここに来よう」と言った。

妹、二人、再び旅を続けた。
数日が過ぎたとき、「お兄ちゃん、もう歩けない」と妹が泣き出した。
そして立ち止った。
彼も疲れ果てていた。だが、一秒でも早くつかないといけない。
戦争はますますひどくなっているから。
「置いて行くぞ」とナジャルは構わず歩き続けた。
妹は大声で泣いた。
「泣いても誰も助けないぞ。泣く元気があるなら、歩け」
急に泣き止んだ。
ナジャルは振り返った。
妹はうずくまり、石のように小さくなっていた。
ナジャルは走り駆け寄った。
「どうした?」
「足が痛いの」
「見ると、足裏に大きな豆ができていた」
「痛いか?」
妹はうなずいた。
「もうすぐだ。おぶってやろう」と妹を背負った。
「生きよう。お母さんの分まで」

ようやく港にたどり着いた。
かつてにぎわったという港は既に戦火にまみれ、荒れ果てていた。
家々の窓は固く閉じられており、港を行き来する者がほとんどいない。

港町もさほど安全ではなかった。
ときおり遠くの方で煙があがった。戦火の煙である。それに呼応するかのように、兵士を乗せたトラックが行きかった。

港で一人の老人に出会った。彼は漁夫だった。
「船は出ないのか?」
「分からない」とぶっきらぼうに答えた。

「どこから来た?」
「ずっと遠いところから、山を幾つも越えてやってきた」
「そうか。海を渡るために、そんな遠くから来たのか。船が来るまで、どうするつもりだ? 泊るところがあるのか?」
ナジャルは首を振った。
「そんな小さな子どもがいたら大変だろう。うちに泊めてやろう」
そこは壊れたビルが並ぶ一角。

数日後のことである。
夕食をしているとき、「昔はここにたくさん人がいた。今では数えるくらいだ。賑わいも消えた。みんな怯えながえ生きている。人はつまらぬ夢を見る。だから争う。つまらぬ夢を見なければ生き延びられる」と漁夫は言った。
「それで幸せなの?」と妹が聞いた。
「十分に幸せだ」と漁夫は答えた。
「お兄ちゃん、十分幸せだって、ここで暮らそう。もうどこにも行きたくない」と妹は言った。
「こんな薄汚い部屋で、粗末な服を着て、明日のパンを心配して、どこに幸せがある?」
妹はまだ12歳だった。12歳の子どもに何が分かるというのか? それはナジャルにも分かっていた。けれど、あまりに漁夫になつくものだから、
「ここが気に入ったなら、ここで暮らせ。お兄ちゃんは独りで船に乗る」
妹は黙った。それから目から涙がこぼれてきた。必死に泣こうとしているのをこらえているのが分かった。
「もう一度いう。ここに残りたければ、残れ。俺は行く」
妹は声をあげて泣いた。
だが、ナジャルは動じなかった。ナジャルは本気でその方がいいと思ったのである。

ナジャルはナジャルなりに悟ったのである。船に乗って文明国に行けば、幸せになれるというのは、単純な願望に過ぎないというのを。だが、止めたら、ミヤに会えない。

何日も待った。
船がやってきた。
船乗りは聞いたことのない言葉を喋っていた。
作品名:難民 作家名:楡井英夫