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この世に無用の人間は一人もいません 慈悲とは何か~今日の法話

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今日はお彼岸ということで、少し仏教用語について考えてみたいと思います。
皆さん、よく「慈悲」という言葉をお聞きになると思います。
仏様の慈悲、時代劇などでは「お奉行様のお慈悲」などと、いずれも情け深い―慈しみに溢れたというような意味合いで使う言葉です。
難しい用語が多い中では、比較的、どたなもが親しんでいる言葉でもあります。
私は花や野草に興味があり、色々と調べたりします。
その中で、つい最近、大変興味深い花を見つけました。
「野ブドウ」です。
画像をご覧下さい。とても美しいですね。
絵手紙の秋の題材にもよく使われる野ブドウは紫や青色、ピンクの色合いのグラデーションが
大変見事です。
秋になると、このような綺麗な色をした可愛らしい実がなります。
ですが、この野ブドウは食べられません。
食用になるのは「山葡萄」の方で、紛らわしいのですが、「野ブドウ」は食べられないのです。
ですが、食べられない葡萄は無用なものなのでしょうか?
私はこの愛らしい実を眺めながら、ふとそのようなことを考えました。
葡萄というからには、食べられなければ意味がないのか?
いいえ、そうではありませんね。
野ブドウは食べられませんが、このように美しく愛らしい姿で私たちの目を楽しませてくれます。
それこそが、野ブドウがこの世に存在する意味なのです。
これは何も難しい理屈ではありません。
皆さん、ご自分が何のためにこの世に生まれてこられたか、お考えになったことがあるでしょうか。
もしかしたら、何か大きな失敗をしでかしてしまったときには
―自分は何のために生きているのか、何故、生まれてきたのか。
ご自分の存在価値を見失いそうになった時、自分に対して、そんな否定的な考えに陥ることも
あるのではないでしょうか。
でも、そこで、この野ブドウを思い出してみて下さい。
この世に無用な存在、ましてや人など誰もいません。
皆様それぞれが尊い存在であり、お一人お一人がこの世に生まれたきた役割や意味を
ちゃんと持っています。
自分には存在価値がないと悲観されている方にも、実はちゃんと存在意味はあります。
まだ、ご自身がその「生まれてきた意味」に気づいていないだけなのです。
野ブドウは食べられはしないけれど、多くの人の目を楽しませることができる。
それが存在意義です。
最近、こんな科白をドラマで耳にしました。
「無用の人間など一人もいない。まだ、その機会に出会っていないだけだ」。
野ブドウの花言葉は「慈悲」です。
皆様、もし、ご自分について否定的な考えに陥ったり、
―どうせ私なんて、生きていても意味がないんだ。
と、この世のすべてに絶望しそうになったときは、心に仏様を思い浮かべてみてください。
「いや、仏像なんて簡単に思い描けないよ」と言われる方は、何でも良いのです。
お父さんお母さん、大好きだった先生、好きな食べ物でも構いません。
何でも良いから、ご自分がお好きな、思い出しただけで幸せな気持ちになれるものを思い浮かべてください。
その「幸せな気持ちになれる」「幸せな気持ちにしてくれる」ものこそが、
皆様にとっての「仏様」に等しい存在であり、「幸せを与えてくれること」が慈悲なのです。
慈悲とは見返りを求めない無償の愛でもあります。
何も難しく考えることはありません。
そして、最後に。
「誰かのために何かをする」ことが、自分の生まれてきた意味だと考えてくださいね。
その何かとは何でも良いのです。
世界平和に貢献するとか、天才になるとか、そんな大きなことでなくて一向に構いません。
例えばですが、朝、少し早く起きて家の前の道の掃き掃除をしても良いのです。
毎日、一つずつ、公道に落ちたゴミを拾うだけでも構いません。
そんな気持ちで毎日を過ごしてゆけば、きっと、ご自身が何をしたいのか、何をなすために
生まれてきたのか。
その意味を見つけることができるでしょう。
「誰かのために何かをする」、「人を幸せな気持ちにしてあげる」―、それが判りやすくいう
慈悲の心ではないかと私は常々考えています。


☆ 二つ目の法話
  「あなたがいるから、私がここにいる」―こめられた意味とは~」

早いもので、秋のお彼岸も終わりました。
 実は秋分の日にブログを更新したいと考えていたのですが、どうしても雑事に追われて、できませんでした。
 少し遅れてしまいましたが、今日は久しぶりにまた少しお話をさせていただきたいと思います。
 お彼岸にせよ、夏のお盆にせよ、亡き方々をご供養する―つまりは大切なご先祖様の魂をお祀りする行事ですね。
 そこで、今日は「あなたがいるから、私がいる」ことについて考えてみましょう。
―あなたがいるから、私がいる。
 この短いフレーズの意味は、何とでも理解できます。
 例えば、あなたを今、取り巻いている人たちの顔を思い浮かべてみて下さい。
 あなたが日常で日々、拘わっている様々な人たちの存在があるからこそ、あなたは今、その場所にいるわけです。他者に生かされている―、難しい言葉ですが、まさにそのとおりです。
 人は一人では生きていけません。常に誰かに助けられて生きています。
 そのような意味にも取れる言葉です。
逆にいえば、あなた自身も常に「誰かに必要とされている」ということです。この世の中に無用の人など、絶対にいるはずがないのです。
 もし、あなた自身が気づいていなくても、あなたが知らない誰かに支えられているのと同じで、あなたも知らない中に誰かを支えているはずです。
 これは以前、お話しした「この世のすべての人に存在価値がある」という考え方と同じです
 ですが、今日はもう少し見方を変えてみたいと思います。
―あなたがいるから、私がいる。
 この「あなた」を現在、生きておられる方ではなく、亡くなられた方に限定してみたとします。
 そう、この場合、あなたというのは「ご先祖様」です。
 この言葉から、私はしばしば、亡くなった父を思い出します。父は私が高校三年生の秋、突然、事故で亡くなりました。
 まだ、53歳の働き盛りでした。自転車で横断歩道を渡っていたところ、真横から来たバスに撥ねられたのです。
 さぞかし、無念だったろうと今ならば父の気持ちが理解できます。
 その父の顔は私にそっくりでした。私は一人っ子でしたので、父は私をとても可愛がりました。不肖の娘ですが、よそ様には
―うちの娘は良い子だ。
 とよく言っていたようで、そんな父の言葉を知ったのは父の葬儀のときだったというのは何とも哀しいことでした。
 父はよく私に言っていました。
―お父ちゃんがいるから、お前もここにいるんだ。
 当時は、何を当たり前のことを言っているんだろうと深くも考えなかった言葉ですが、今になれば、その深い意味を理解できるような気がします。
 親がいるからこそ、自分が今、ここに存在する。父の言葉はまさに、それを意味していたのではないでしょうか。
 もっと広い意味でいえば、父だけでなく、父の父―祖父、更には祖父の父、何代も前からのご先祖様がいたからこそ、今の自分がこの世に生まれてきた。
 父の言葉には、深い意味がこめられているように思います。