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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 2.愛美の章 巻時計

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 今、あの狭い空間には武と紗弥の二人きりなのに、男女の事が起こるとは、到底思えなかった。そう考えると、巻時計の下にダッフルコートが置かれていたくらいで、くだらない妄想を働かせてしまった自分が、ばからしくも思えてきた。

「ねえ小雪、今朝、タケ兄の部屋に行った?」

 五号室に入る前に思い切って聞いてみた。ベースを持ち上げようとしていた小雪の体が、ほんの少し揺れた。すぐ前には信洋がいる。スティックを握って入室しようとしていたが、歩みを止めた。彼には残酷なことかもしれないが、疑惑を抱いたまま練習を始めるなんてできないと思った。

「私、見ちゃったの。小雪の靴と服」

 小雪は足元を見下ろした。ボーダーのロングニットに紺色のスキニーパンツを合わせ、あのフリンジブーツをはいていた。

「あーうん。あの譜面のライブ録音がタケ兄の家にあったらしくて、聞かせてもらったの」
「やましいことなんてないよね」
「なにそれ。そんなの何もないよ」

 愛美は腕を組んで小雪につめよった。彼女はいつものように少したじろいだが、変化を見つけることはできなかった。信洋は息をとめてるんじゃないかと思うほど緊迫した顔をしていたが、愛美は鼻から呼気を吐きだして、信洋の背中を押した。

「何にもないんだって。一安心だね、ノブ」

 疑念を抱いてしまった自分の心に言い聞かせながら、信洋の砂袋のように重い体をスタジオの中に押しこんだ。ふりかえると、小雪のベースのむこうに、なぜか紗弥がいた。

 紗弥は手の甲で小雪の肩を払って、あんたは早く中に入りなさいと合図していた。それから愛美の目をじっと見て手招きをしてくる。どうやら愛美に用があるらしい。
 周囲に誰もいないのを確かめてから、紗弥は小声で言った。

「マナちゃんは何も聞いてないの?」
「何って……何を?」

 彼女が何の話をしているのかさっぱり見当がつかない。

「あーいや、ピアノはマナちゃんだと思ってからさ、誰を連れてくるんだろ」

 紗弥がひとり言のように言って、考えこみだした。「あー」のあとの発声のタイミングが小雪とそっくりだな、と関係のないことを考えていると、紗弥が愛美の肩をつかんだ。

「あのバカ、やっぱり言ってないのね。じゃあもう私が言っちゃっても……」

 言葉の途中で紗弥の額に影が差した。ふと見上げると、武がぬうっと顔をのぞかせた。

「いいわけないだろ」

 紗弥は愛美の肩をつかんだまま、うしろにふりむいた。

「じゃあさっさと言いなさいよ」 
「うるさいな。最初からそのつもりだよ」

 武がそう言ってつめよると、二人の鼻の頭がぶつかりそうになった。兄が何を言おうとしているのかなど愛美には既にどうでもよくなっていて、二人の挙動に心臓を高鳴らせていた。

「……ったく、こいつに言ったら絶対面倒なことに……」

 武は煮え切らないようにぶつぶつと文句を言っている。紗弥はすばやく手を上げると、武の鼻の頭をきゅっとつまみ上げた。「男のくせにだらしないわね」と言って、痛がる武から手を離そうとしない。

 もしかしたら二人は付き合っているのではないか、という淡い期待はあっさりと裏切られ、愛美の肩から力が抜けた。

 紗弥が手を離すと、武は「いってーこのくそ力」と文句を言ったが、紗弥の耳には届いていないようだった。彼女は何故か眉をしかめてくちびるを結んでいる。
 いつも強気な紗弥の困惑した表情を見るのは初めてだった。
 紗弥は愛美に視線をむけると、一気に言葉を吐きだした。

「こいつは自分の結婚式のためにビッグバンドを立ち上げたのよ」

 周囲の音がたちどころに消滅した。防音扉のむこうからいつも漏れ出しているドラムセットの振動も、コンクリートの壁に全て吸収されていた。いつものこの時間ならこの場にいるはずのない紗弥の姿が、現実感を帯びないまま迫っていた。

「お兄ちゃんの……結婚式……?」

 愛美が放心していると、「なんでおまえが言うんだよ」と武が落胆したような声を出した。

「結婚って……誰と?」

 喉が勝手に動いて、そう発声した。武に切れ目なく付き合っている女性がいることは知っていたが、不特定多数の女性が次々に思い浮かんで、愛美は混乱した。あふれ出してくる記憶の焦点を絞るために、ぎゅっと目を閉じた。実家に訪ねてきたことのある女性、たびたび『ブラックバード』を訪れる三人の女性、武の自宅を訪ねる女性――

 突如、ふわりと小雪の姿が眼前に浮かんだ。真っ白のウェディングドレスを纏う白磁のようにつややかな肌、愛美が投げるフラワーシャワー、その隣にいる花婿は――
 兄のはずがない。小雪の相手は信洋だ。
 無駄に働いた思考をふりきると、武が目を細めて愛美を見ていた。

「会社の取引先の人だ。マナも一度だけ会ったことがある」

 愛する花嫁の話をしているはずなのに、武の声色は冷ややかなものだった。

「その話、お母さんには……」
「してるに決まってるだろ」

 武はため息をつくように言った。もしかすると、昨日はその話を愛美にするために実家に戻っていたのかもしれない。

 しかし、あの場で武が結婚の話をしただろうか。愛美の隣には、ろうそくの淡い光の中で微笑んでいる小雪がいた。

「マナ、もう始めてもいいのかって、ノブが……」

 そう言って防音扉を開いたのは小雪だった。思わず愛美が視線を彷徨わせると、武が小雪を見下ろしていた。そのうしろから、スティックを脇に抱えた信洋が顔をのぞかせた。
 防音扉のすき間から、絶え間なくホーンセクションのチューニング音が漏れているのに、腕時計の秒針を刻む音が、妙に甲高く愛美の耳の中でこだましていた。

 時計の針は戻せない――過去に立ち戻れないのなら、ピアノを弾くための指に血が滲んでも、巻いて巻いて時を進めるしかない。
 武の所有する古いぜんまいを壊れるまで巻いて、たどり着いた先に何が待っているのか。

 愛美が憧れた誰もが幸せな未来など、どこにもないのだと、武のほの暗い瞳が物語っているようだった。