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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 2.愛美の章 巻時計

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 巻時計の下にあったダッフルコートのことは――今は忘れてしまいたかった。

                 ***

 その日の夕方、四限の授業を終えて十号棟の地下へむかうと、スロープの下に信洋がいた。足早に沈もうとする夕陽を受けながら、「大丈夫?」とでも言いたげな顔で首をかしげてくる。すでに練習モードに入っていたのか、ダウンジャケットは来ておらず、カットソーの袖を肘までまくり上げていた。

 今から、愛美が有志で集めたビッグバンドの練習が始まる。バンドマスター兼コンサートマスターはもちろん愛美だ。クラブのレギュラーバンドでは吹き足りない部員を集めているため、みな練習熱心でライブを心待ちにしている。

 気合を入れ直すため、「よしっ」と声を上げて大股で歩いていく。わざとらしい歩き方に信洋が苦笑したので、愛美は特上の笑顔を作って声をかけた。

「さっきはごめんね! もう大丈夫だから」

 リズムパートを構成するドラムの信洋、ベースの小雪とは一回生のときからずっと一緒にやってきた。三人のあいだには揺るぎない信頼関係があると、愛美は信じている。少しの諍いで、バンド全体のリズムを狂わせるわけにはいかない。
 プロのレベルには至らなくても、チャージが発生するライブを主催するからには、プロフェッショナルを貫きたいと思っていた。

「さあ、がんばろー!」

 そう声を上げて信洋の腕を引っぱっていった。
 一号室のそばを通った途端、全身に鳥肌が立ちそうなほどの懐かしく切ないウッドベースの旋律が聞こえてきて、愛美は立ちすくんでしまった。

 ひとりで近寄る勇気が持てず、信洋の腕をつかんだまま、扉の前に立って耳を澄ませた。
 ベリーファーストのテンポで刻まれるベースの4ビート、彗星のごとく駆け抜けるトランペットのソロ。武と慎一郎が生み出した『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』――

 防音扉を開け放つと、額に汗を流す武と、背をむけた慎一郎が立っていた――
 ふりむいたのは小雪だった。ゆるいくせのある髪を、後頭部の中ほどにまとめ上げている。譜面台には、小雪の手書きのコード譜と、例のベースのソロ譜が並べられていた。

「ああ、ごめん。もう全体練習はじまるかな?」

 小雪は、武との演奏はなかったようなそぶりで身の回りのものを片づけ始めた。武もふいと壁の方をむいてミネラルウォーターを飲み、他の曲を吹き始める。
 信洋が訝しげな表情で様子をうかがってくるのがわかった。今、自分がどんな顔をしているのか、愛美はわからなかったが、この場の状況をただ鵜呑みにはできないと思った。

 小雪が例の譜面に手をかけた。愛美は練習室にとびこみ、小雪の手から譜面を奪い取ると、次の瞬間には破り捨ててしまった。

「だめだよ、こんなの」

 愛美の行動に理屈はなかった。ただ、慎一郎が作ったソロを慎一郎のベースで弾く小雪の姿など、二度と見たくないと思った。信洋は破られた譜面を一瞥したあと、「マナ」と低い声で言った。武はふりむいただけだった。小雪は――床を見つめるばかりだった。

 小雪はきっと、武の言うことには反発できない。オリエンテのウッドベースを貸してやると言われればそれに従い、ハウハイのベースソロをやれと言われたからそうしただけのことだ。だったらぶち壊すのは自分しかいないじゃないか、と愛美は心を決めた。

「私、追悼セッションには出ないから」

 武は破られた譜面を拾いあげて目を細めていたが、静かにこうつぶやいた。

「おまえの好きにすればいい」
「小雪も出させたりしないから」

 愛美はこぶしを握りしめて言った。ななめうしろに立っていた信洋に、「ノブからも言ってやってよ」としがみついて体を揺らしたが、彼は首をふるだけだった。

「それはユキコが決めることだ」

 武はそう言うと、再びくちびるを舐めてトランペットを構えた。
 耐え難い憤りが体の奥から吹き出してきて、長兄が愛用している金メッキのトランペットを叩き壊してやろうかと思った瞬間――

「あーら、なんだか修羅場っぽい?」

 とぼけた言い方をして通路に立っていたのは、小雪の姉、荻野紗弥だった。

「紗弥ちゃん、どうしたの」

 最初に声を上げたのは小雪だった。心底驚いたという顔をして、かけよって行く。

「どうって、六時からビッグバンドの練習が入ってるの、言ってなかった?」
「なんにも聞いてないよ」
「まあ、あんたにいちいち言っても仕方がないわね」
「またそういう言い方する。ていうか、いつから練習なんてしてたの?」

 狭い練習室にいる他の人間を取り残して、小雪と紗弥の会話が始まった。
姉妹の他愛のない雑談のおかげで、武に集中していた殺気がそがれていく。
トランペットケースの上に置かれた無残な譜面を見ながら、ごめんねシン兄、と心の中でつぶやいた。

 姉妹の会話はまだ続いている。どうやら今度は信洋を巻きこんで、恋愛トークに移行しているらしい。紗弥よりも背の高い信洋が、ずいぶん縮こまって見えた。
 紗弥は仕事帰りらしく、スーツ姿でテナーサックスのケースを下げている。この姉妹の顔立ちが全く似ていない理由は、ずいぶん前に小雪から聞かされている。

「紗弥さんが練習にくるなんてめずらしいね」

 出会ってすぐの頃、友人の姉に敬語なんて必要ない、と一喝されてしまい、名前には敬称をつけるもののくだけた話し方をさせてもらっている。紗弥は銀縁の眼鏡をこちらにむけると、小さなため息をついて言った。

「まあね。参加しないわけにもいかないし」
「部員の誰かの結婚式、とか?」
「え? あ、まあ。そういうこと」

 一瞬、紗弥の目が見開かれた気がしたが、またすぐに遠い目に戻って部屋の奥に入った。
 トランペットを構えたままの武は紗弥の姿をちらりと横目で見ただけで、声もかけない。

 紗弥は破れた譜面を見ながら、「あーらま。派手にやっちゃったのね」と言った。鋭い紗弥のことだから、元の持ち主が誰なのかはすぐに読み取ったに違いない。
 愛美は思わず身を固くしたが、紗弥は「マナちゃん、やるぅ」と言って指でつついてきた。
 目を丸くしていると、紗弥はにやりと笑って言った。

「小雪と信洋くんにはこんな大胆なこと出来ないものね」

 それから武をジロリと睨んで続けた。

「またあんたが身勝手なこと言いだしたんでしょ。こんな譜面引きずりだしてきて、うちの妹を人身御供にでもする気? まったく冗談じゃない」

 紗弥は口早にそう言ったあと、武の肩を拳で叩いた。武の体がほんの少し揺れたが、慣れた様子で口からマウスピースを離そうともしない。

「マナちゃん、こいつのくだらない妄想なんてぶち壊してやんなさい」

 紗弥の小さな手が、愛美の肩に乗った。眼鏡の奥の瞳がゆるやかな曲線を描いている。
 ほっと気持ちが緩むと共に、紗弥の言葉が、何度も頭の中を行き来した。

 紗弥は楽器ケースを長椅子に置くと、「今から全体練習でしょ、若い者は行った行った」と急き立て始めた。

 愛美、小雪、信洋の三人を練習室から追い出したあと、ガチャリと扉を閉めてしまった。