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香水

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『香水』

もう秋である。窓を開けると、アパートに面する街路樹が黄金色に染まっている。
その日は朝から風もなく穏やかで、ちょうど昼下がりであろうか、呼び鈴がなったので、ドアを開けた。すると、X夫人が立っていた。突然の来訪に驚いた。

「近くに来たので、挨拶に伺おうと思ってきました。迷惑かしら?」
「いえ、かまいませんよ」
二か月前、彼女は長年連れ添った夫であるXを不慮の事故で亡くした。仲睦まじいという評判だった。まだ悲しみが抜けないのか、実に沈痛とした表情している。
 話を聞くと、葬儀に参加した礼を言いに来たと言う。
「主人が死んで、心に大きな穴が開いたままなの。子供がいたら、また話が別でしょうけど。今は主人の遺品をあれこれ、整理していますけど」
夫人は何か、意を決するように、
「こんな話をしていいのかと思いますけど、主人に愛人がいましたが?」と聞いた。
驚いて彼女を見た。その目は真面目そのものだった。
「どうして、そんなことを聞くんですか?」
すると、彼女はハンドバックの中から一枚の写真を出した。
「これ、主人の机の鍵のかかる引き出しの奥にあったの」
Xが若い女性と並んで写っている。
Xは堅物という評判で、めったに笑わないが、その写真の中で満願の笑顔だった。その若い女性はクラブのホステスリサだった。飲みにいったとき、たまたま獲った程度のものだろうと推察した。
「この女性は知っています。ホステスですよ。僕も何度かあったけど。でも、奥さんが気になさるような関係ではなかったと思いますよ。奥さんもご存知のように、彼は実に堅物でしたから」
人は一面しか見せない。他人はその一面だけで判断する。Xが堅物というのは、世間見せる一面に過ぎなかった。全くの堅物ではなかった。そんな彼の実情を知っているのは、20年来の友人関係であった自分以外は誰も知りえないかもしれない。
「どこの店に勤めているのかしら?」
「知って、どうします?」
「気が向いたら、私も飲みに行きます。女性が一人で行ったら変かしら?」
「そんなことはありません」
店の場所を教えた。
妙な胸騒ぎして、店に行った。
リサと話をした。
そのとき、甘いし香水の匂いがした。X夫人と同じ匂いの香水だった。
「善い香水しているね」と聞いた。
「これ、貰ったものなの」と彼女は答えた。
Xからプレゼントだと直ぐに思った。
半年後、リサが彼女のマンション近くの大きな川に転落し死ぬという事件が起こった。
深夜の出来事で、目撃者もなく、事故死ということになった。
そのことを知ったとき、すぐに夫人の顔が脳裏に浮かった。
夫人は人が変わったという話を共通の友人であるサエコから聞いた。
「どんなふうに変わった?」
「なんか、派手になった。それにいろんな男と遊んでいるらしい。まあ、独身だから誰も文句は言わないけど。なんか黒人の男に夢中だという話も聞いた。その黒人が派手で甘い、甘い香水をつけた女が好きだという噂よ」
数か月後、X夫人を訪ねた。確かに別人のように変わっていた。前は地味な服を着ていたが、とてもは派手な服を着ていた。
「どうしました、まるで鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をして」
「主人が死んで二年も経つのよ。残された時間を自分のために生きようと思って、だめ?」
「いえ、いいと思います」
夫人は別の香水をしていた。確かに甘ったるい匂いの香水だ。
「ところで、店に行きましたか?」
「忙しくて、結局、行けませんでした」
それは嘘だと分かった。だが、それだけのこと。
「あなたが持ってきた写真の女の人、リサさんは死にました」
夫人は驚きもせず、
「そうjなの」と呟いた。
「ところで、今夜、一緒に飲まない?」と誘ってきた。
暇だったので、一緒にのみに行った。つい酔いに任せて、一緒にホテルに泊まってしまった。
彼女の方が先に服を脱いだ。
大きな乳房があらわになった。
その大きな乳房に引き寄せられてしまった。
終わった後で、また飲んだ。
そして、つい酔いにまかせて言ってしまった。
「リサさんを殺したでしょう?」
すると、夫人の顔が鬼の形相になった。
「あの女が勝手に死んだのよ。自分から川に落ちて」
その鬼の顔はすぐに消えた。
「女心って、ほんのちょっとのことで傷つくのよ。男はそれを子供みたいだと笑うけど、男と女の違いよ。医学的みても、精神的みても、男と女は違う生き物だと思う」
X夫人は豊かな髪をいじりながら言った。
「夫が愛人が作っていたことは知っていた。あの人はインテリの仮面をつけていたけど、本当は品性のない農民のDNAを持っていた。きっと、そのDNAが性欲を駆り立てたの。私はそれを許した。少なくとも遊びに過ぎないと思って。でも、あの女にあったとき、あの女も同じ香水をしていた。そのとき、思った。夫は彼女にも同じを香水をプレゼントしていたと。私とあの女と同じに見ていた。許せなかった。そして、何よりも私よりも若かった。年を聞いたら、勝ち誇ったように”まだ三十前だ”と言う。”主人のことをどう思っている?”と聞いたら、”好きだ”と言った。”遊び”とか、”金ヅルだ”と言ってくれたら、救われたのに。でも、あの小娘は”愛している”と言った。そのとき、怒りの導火線に火がついた。だからといって、殺したりしないわよ。彼女は酔っぱらって一人で川に落ちたの。私はそれを見ていただけ。それは罪じゃないでしょ?」
X夫人は苦笑したが、すぐに止めた。窓の外に目をやった。窓の外には、美しい月が出ていた。
翌日、目覚めると、彼女は部屋から消えていた。
テーブルの上にメモがあった。「一夜の思い出にしてね」と書いてあった。
二人の関係は終わった。
半年後、X夫人に遭遇した。何事もなかったように彼女は笑みを浮かべ去った。
彼女が去った後、香水の匂いがした。だが、それは甘ったるい香水ではなかった。きっと黒人と別れたのだと思った。
その話はサエコにした。
「彼女は何か吹っ切れたように遊んでいる。まるで蝶みたいに。でも、ある男から聞いたんだけど、ときどき夢でうなされているんだって。どんな夢を見ているのかしら?」
「本人に聞いてみなよ」
「そんなの聞けるわけがないでしょ。でも彼女は旦那が死んで多額の遺産が入ったみたいだから……まさか、旦那を殺したとか……?」
「それはない。あれは完全な事故だ」と言ったとき、ふと思い出した。Xが「別れ話をしているが、離婚届けに判を押してくれない。まあ、それでもいいけど、財産は別の女にやろうと思う」と言ったことを。その直後の事故だったことを。ひょっとしたら、リサが生きていては困る何かがあって、そして彼女を殺した。たとえば、彼女に分与するとかいう遺書を書いてあって、生きていられては困ることになったとか……単なる憶測だった。
「ところでサエコ、お前の香水、趣味良いな。誰かに貰ったのか?」
「内緒よ」

作品名:香水 作家名:楡井英夫